特別なことをやめると自然になります。
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
新着記事
応援クリックお願いします!
プロフィール

差取り塾

Author:差取り塾
悟りの目線から明人が色々伝えさせて頂きます。
自由について、愛について書いています。

自覚のためにゴルフをやっているんですが、色々なことがハッキリしてきます。

練習は好きなだけ(好きなように)やればよいですね。

すると、うまくなったように感じます。

もちろんそれなりに上達はしているのですが・・・・

しかし、実際にコースで打ってみると思うようにならない。

場合によっては練習の成果が全く感じられない様な事も起きます。


悟りの練習(勉強)をしている人について考えてみると、練習はできますが、本番がありません。

ゴルフならスコアが出ますが、悟りについてはそういったものが目に見えてだれでもわかる形が無い。


だから練習を一生懸命した人はなんかできている気になったとしても、それを確かめる機会がないわけです。

すると、妄想を呼びます。

ゴルフでも一生懸命練習してからコースに出るまでの間は、妄想が膨らみます。そして、コースでそれは表され、場合によっては打ち砕かれるのです。

ゴルフは結果としてハッキリ返って来る(来てしまう)。

だからこそ課題が明確になりやすいし、その練習をすることができるのです。


悟りはそうはいきません。

多くの場合どうなっているのか分からないまま練習しかできないのですから・・・

いつ悟るか分からないし、どの段階まで進んでいるかもわからない。五里霧中の中で歩み続けるうち、霧の中の妄想(幻想)を見たりします。


さて、差取り塾ではどうなっているかというと、そういった常識はありません。

進んでいる段階、段階をあげる練習(修練)が明確に行われています。

本番に関しても、練習と実践がハッキリできるように進むことを大切にしています。

実践の場は実社会。そして、Skypeや対面のセッションです。

練習はSkypeと対面セッション。

実践は練習の成果を白日の下にさらし、本人の理解に大きく貢献します。

実践についてもどのように実践していくのかお伝えしています。


進捗度は本人でもいづれ分かるようになりますし、それまではサポートしています。

ですから、妄想はあまり起こりません。

わかった気になっている人はほぼいません。

それは見えない世界のことだけに、とても大切なことなのです。

地に足をつけて歩んでいく。

これが悟りにおいて一番大切なことの一つです。

その気になっても実際悟っていなかったら元も子もないですよね・・・・

妄想で悟ってもなにも救われないどころか、本人を苦しみに追い込んでいってしまいます。

やせ我慢して、悟ったふりしても苦しいだけです。

本当に悟ったら、苦しみから自由なのです。

天と地ほどの差があるのに、妄想を掻き立てるのはエゴのなせる業なのです。


ゴルフで思うのですが、プロのことはプロになってみなければ分からないのに、評論をする人が多すぎます。

なまじ的を射たような事をもあるから、区別がつかなくなって妄想を呼んでいます。

一生懸命死に物狂いでやってみて、プロゴルファーのことが少しわかるかもしれません。


道元禅師も鳥のいく方角は鳥になってみないと分からないと言ってたような・・・・


差取り塾で無料Skype体験をやっていますが、それに参加された方でなまじ知っていて「あぁ・・・・」な感じで終わる人を見るともったいないな~と思います。

一生懸命やっていても、大切なところが抜けている。

知っていても、大切なところを知らない。

それは知っていたことであって、知ったことではないのです。

差取り塾には悟りの妄想はあり得ません。すべてハッキリさせていくからですし、ハッキリさせることができる経験が蓄積されているからです。
スポンサーサイト
2017/09/24 11:00 悟り TB(0) コメント(-)
このブログを読んでいて排他的に感じるという話をたまに聞きます。

その様なつもりはないのですが、なぜそうなるのか書いてみたいと思います。

このブログがどの様な心持ちで書かれているかというと、読んでわかるものならわかってもらいたい。という思いで何年か書いてきました。

しかし、書けば書くほど、読んだだけでは伝わらない(伝わりきらない)という事がハッキリしてきたように思います。

読んで多くの人が分かるのなら、差取り塾が在るという必然はなくなりますから、その時は必然に従います。

私の文章力の至らなさで排他的に感じている方には申し訳ないとおもいます。

基本的にはウエルカムです。

一生懸命やると腹が決まっている人は必ず至ります。

しかし、腹が決まっていない人はそれなりなのです。

どうそれなりかというと

読むだけ

読んでわかった気になっているだけ

読んで(自分なりに)実践してみて判断しているだけ

読んでみて、実践して、手ごたえがそれなりにあってそこでおしまい。


こういう風に書いていくと排他的な感じになってきます。一生懸命で何事にも前向きに向かっていく人にとっては「そうか」くらいにしか感じないのではないでしょうか。

読んでくださるだけでも十分です。

読んでくださってありがとうございます。

・・・・・

これって、読んでくださる方々に向き合っていると思いますか?



見せたいんです。

その境地を・・・・

来て、続ければ確実に見せられるんです。

読んでわかればそれが一番です。

しかし、殆どの場合そうはいかないんですね。

来た人はみんな分かります。そして、同じ景色を見ながら話しますから、言葉で語れないところもどんどん分かるようになるのです。

みんなで同じ景色を見ている時、その景色を見ることができない人にとっては排他的に感じるかもしれません。

しかし、ちょっと辛抱して登ってきてほしいんです。

そしたら同じように語れる。

同じ道を登った仲間が同じ景色を見ながら語り合うのは登った者にしかできない経験です。


登った者はどう考えると思いますか?

その景色を見たいという人に惜しみなく力を貸すようになります。

そうしているうちにここでは多くの方が到達し、さらなる高みに挑んでいます。

悟るのは当たり前。だから悟るという事に煩わされ続けてはいけません。

悟ってから勝負です。悟ってからがまた面白い。

そこに到達した者は助け合いまた挑んでく・・・

そんな風に今はなっています。

ですから中をのぞいてみれば決して排他的ではないと感じるはずです。

もし、排他的な考えを持っている人がいるとすれば、自覚を余儀なくされますよ。

そしてまた一緒に進んでいくんです。

そんな風にみんな歩んでいます。

2017/09/23 03:55 悟り TB(0) コメント(-)
お伝えすることで最も大切にしていることは、

自分で気づくことができる

ということです。

乱暴な話をするならそれさえあれば何もいらないからです。

ただひたすら自分で気づく修練をするなら、気付くことができる自分自身になっています。

気付くことができる修練は必然的に意識を押し広げ、気付ける範囲が知らないうちに広がっているのです。

これは思考ではできない部分の話であり、思考で理解したとしてもその理解は間違いなく違います。


自分で気づけるようにお伝えすることは、エゴにとっては諸刃の刃です。

伝えられている人が気づいていくからです。

私が伝えていることに曇りがあるのなら、それを気付くようになります。

ですから、伝え続けるためには一点の曇も許されません。

そのくらいの覚悟でやらないとい分かるようになった人は離れていくのが自然です。

自分で気づけるようにに伝えるということはそういうことです。


エゴで似たようなことをするためには気付かれないようにするのが自然です。

気付かれないようにしていても中には気づく人がいます。そういった人は引っそれと離れていき、気づかない人はそのまま
そこにい続けます。

気づいた人は同じような過ちはもう起こしません。

気づかない人は不満を抱え離れる人はいますが、離れた理由が不満なため、また同じようなところに期待し、求めます。

それは気付くまで繰り返されます。


大切なのは誰かに教えてもらうことではなく、自分で気づくことができる様になることです。

自分で気づけるということは自分を守り、成長させ、生きることを楽にさせていきます。

それは自然なことであり、必然でもあります。


気付ける自分。

気付こうとしてはいけないのです。

あくまでもきづける自分になっている事が大切なのです。


気付こうとすると疑念を生みます。

疑念は気づきの目を曇らせる思考です。それは妄想とも区別が付くものではありません。

自分で気づけるようになった人は一人で進むことができるようになります。

しかし、「気付き」のレベルをあげようとする人はいません。

ですから、進みがどうしても遅くなります。

それがはっきり分かるなら、気付くことを修練する意図と方法を知るようになるでしょう。

何に気付くかが大切なのではないのです。

気づきのレベルが上がれば気付くことは必然でしかないのですから。

2017/09/21 01:07 悟り TB(0) コメント(-)
最近インドの聖者の本があったので少し読んでみました。

その時感じたことを書いてみたいと思います。


質問者は貧困や争いがあると言い、聖者はそんなものはないと言う。

この会話がかみ合わない事・・・・

聖者が言っていることを理解しようとしてもできません。

それは山の上とふもとで景色の話をしているようなものです。

それでは質問者が理解できることは無いでしょう。

こういった勉強をするなら、いつまでたっても聖者の境地には近づけません。


一方他の章では、生活を通してどうしたら理解が深まるかという問答が行われています。

そこでされている会話は、聖者が質問者に起こっていることをお話するのですが、質問者は自分の主張を繰り返すばかりで、聖者が指し示すことを理解しようとしません。

そういった事がなぜ起こるのでしょうか。

話を聞いて理解しようとするからであって、話を聞いたら理解できると考えているから。

ここに大きなヒントが隠されています。

その事は話として書いても、話として受け取られることが殆どですから、話としては書けないのです。


さて、聖者と質問者の話はどのような関係性かというと・・・・

子供がお化けが怖くて仕方ないし、そこにいる

と言い張っているところに

そんなものはいない。よく見てみなさい

と大人が言うのと似ています。


私がお伝えするとき、何を大切にしているかというと

お化けがいると言っている時、それを否定することはありません。

その子にとってはお化けがいるというのは真実なのですから。

大切なのは、それが真実だと言っていること自体を認めることです。

それが足掛かりとなり、次のステップを生み出していきます。


これは今までなかった方法かもしれませんが、確実な手法です。

禅などで悟るプロセスを細かに分けた時、何が起こっているか知るとそれができるようになります。

聖者や禅師はそのプロセスを体で知っています。

そのおかげで今ではそのプロセスを感覚ではなくはっきりと導けるようになりました。

それは人類の進化もかかわっている事です。

人類の意識は1000年前からすると随分進化してきました。

進化した分、理解できることも深くなっているのです。

ですから、1000年前2000年前の方法をとらなくても、2000年前本当に伝えられていたことをもっと効率的に勉強することはできるのです。

2017/09/16 17:23 悟り TB(0) コメント(-)
差取り塾でお話をしていて感じる事ですが、一生懸命生きてきた人は知っているということです。

表われを通して、何かを感じて取っているからです。

どうしてそれが起こるかという事は差取り塾でも話していますし、グループセッションの動画でも公開しているので省略します。

前回のグループセッションでは一生懸命生きてきたことをとおして、すでに勉強の材料はすべてそろっているというお話でした。

だから、あらためて勉強する必要などないのです。

生きてきたことをとおして悟る準備ができている。

しかし、不足を抱えてなにかを学ぼうとするならそれは表れの現れた部分だけに気をとられ、表れの本質を無視していることになりやすいのです。

勉強していても不足感がぬぐえない人は差取り塾にいらしてみてください。

なぜそうなっているのか、あなただけの処方箋があります。

大切な勉強があるとすれば、すでに知っているという事を知る勉強です。

求める事を一生懸命されてきた人は沢山の勉強をすでにしているはずです。

その勉強で覚えたことに何の価値もありません。

しかし、一生懸命求めた「それ」は必ず真価を発揮しはじめる時が来ます。

いつまでもそれをくすぶったままにしておくか、大きく燃やすかは本人次第です。

どんなことでも一生懸命やってきた人。

そういった人が差取り塾の門をたたえてくださるなら、半年以内にその境地にお連れします。

そうでない人でも2年一生懸命やってくだされば、今までの人生でサボっていた分を取り返しおつりが出るほどになるでしょう。

そうは書いていますが、最近では来てわずかでその境地を知る人が何人もいらっしゃいます。

そういった方に共通することは、どんなことでも一生懸命向き合う事ができる人たちでした。

悟りたくて、本ばかり読んでいる人は時間がかかります。

目の前に沢山表れているのに、それを無視して本知識ばかりに気をとられているからです。

理屈をこねたくなった時、その境地から遠ざかっています。

私は知っているといった瞬間に離れ、私は知らないといった瞬間に近づきます。

理屈では分からない事があるのは、理屈で理解しようとするからです。

その境地へ導くテクニックがありますが、体系化できるところのテクニックではありません。

その部分は公開したくてもできないところです。

差取り塾で学び続けている人たちにはそれを伝えていますが、顕在意識に昇らないところでその理解が起こっているはずです。

顕在意識・潜在意識より深いところをどうやって説明すればよいでしょうか?

それは表れをもって、指し示し、示されたものはそれを悟るという手段が数千年前から行われてきました。

今はちょっと違います。

言葉の成分を分析して、それを処方することで、そこを悟っている状態にできる時代になっています。

それが最先端の勉強法だと考えています。

分析できる装置がなければそれはできないのですが・・・・
2017/09/14 14:30 悟り TB(0) コメント(-)
差取り塾のお知らせ
差取り塾へのお問い合わせはHPからお願いします。
検索フォーム
ブロとも申請フォーム