そのまま「観る」という科学
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差取り塾

Author:差取り塾
社会の中で地に足をつけて活きるという事を突き詰めると、思考を超えた合理性を帯びるようになります。

ここに書かれている事を面白いと感じる方はごく少数です。

人間社会において一歩進んだ考え方はもてはやされる傾向にあります。

それが二歩以上先の事になると変人扱いされたり、多くの人にとって興味を引く話ではなくなります。


私も普段考えるのですが、私がお伝えしている事がそれほど重要な事ではないのではないかと・・・

しかし、どこを見ても本当に幼稚に感じることは確かです。

具体的に書くなら、ぼんやりした理解をさも真実のように語っている。

それに多くの人間が集まって、その考えに同調している・・・


ハッキリその様に見えるのですが、いまだにそれは大きくは変わりません。

今年に入って大きな変化が起こっていす。

その中で大きな変化をしていると感じている方々もいるかもしれませんが、まだ夢の中でのお話をしているように見えます。

大きな環境の変化の中で人間がある程度進化した時まで、今お伝えしている事の価値はごく少数の人にしか理解できないと思いますし、差取り塾に来たからといって分かり切らないまま去る方も多くいらっしゃいます。

しかし、その過程に身を置いている方は今も進み続けています。


この宇宙のやり方では不足が沢山あるように感じています。

これ以上は書きませんが汲み取れる方はくみ取ってください。


このブログは理解しようとするのではく、一字一句読んでいくことで感じ取れる何かがあります。

動画についても言葉を理解する事よりも響きから感じ取る何かが意識を「それ」に導いていきます。

なるべく人間の感性を介在させないことが重要です。


結果に至る事が最も大切です。

このブログを理解できないとしても、どこか頭の片隅に置いておいてください。

解ったとしても、そこで思考停止させないでください。

解る事が重要なのではなく分かっている事がいつも大切です。


少しでも感じるところがあったら思い当たる人にブログや動画を紹介していただけると助かります。

二世代先とタイトルには書きましたが、本来人が備えておかなければいけない最も根本的なことなのです。

このままそれなく人類が進んでいくのならそれほど遠くない未来に崩壊が起きることになります。

直近で見る崩壊は崩壊ではありません。

本当の崩壊は数年後です。

それを止めることはできるのは情報リテラシーを極めた人々の力です。

私がお伝えしている情報リテラシーは一般的に認知されている情報リテラシーではありません。

人間の観点では知り得ない観点を得ることが真の情報リテラシーと考えています。

それを地球の人は昔から悟りといっていました。

悟りというといったもん勝ちの世界であり、人間はそんな判断基準で悟った人という規定をし、そこから学ぼうとします。

そして、夢の中で悟りに翻弄され続けます。

この世界の常識はあまりにも幼く、危ういものです。

それを知って生きることがどれほど自分自身や周囲に良い影響を及ぼしていくか・・・

良心が起こる方に意識を向けてみてください。

それが自覚をする前にその価値を知ることができるヒントです。

今、差取り塾では収益の殆どを投資して、有料の情報や設備の充実に当てています。

差取り塾で修める情報リテラシーのほかに、実際現象としてどうなるのかという検証も同時に行っています。

そういった情報を見ていると、やはりインターネットに無料で出ている情報がいかに間違えているかという事も感じます。

無料で公開されている情報を選び取ったとしてもそもそも間違えているという現実があります。

会員の方の生活の助けになる事に多くの投資をしています。



今、お金の都合がつかない状態で始められない方もいらっしゃるかもしれません。

それでもどうしても進まなければいけないと感じる方はご相談ください。
このブログは、人間ではなく人もしくは、人間から人に変わる過程にある人に向けて書かれています。

人間とは何か、人とは何かという事については最近にブログを読んできた抱ければ察することができます。

なぜ察するのかというお話。

察するという事は物事を決めつけ切らない。

理解の余地を残しておくことでもあります。

察する時常に未知が含まれているという事を自覚してみてください。

すると、察したことについて正しいか間違えているかという判断が消えることになります。

察する事と先読みは違います。


ここまで読んできて、察するという事について、私がなにを示しているのか察することができたでしょうか。

これはゲームのようなものです。

楽しみながら察してみてください。


察するといいながら、妄想に陥っているならすでに察するという事をやめてしまっているという事になります。

それが無自覚におこっているのが人間です。

人間は察するという事も出来ているようで出来ていません。


察するという事は、一つの答えに限定することではありません。

可能性、方向性からそれに反する事のない事柄の候補を絞るという事でもあります。

これがとても重要なのです。


その様に察するという事を人間が極め始めた時人への変化の時期に近づき始めている事になります。


察するという事を極めていくと、その究極が悟るという事になります。

一般的な意味の「察する」と「悟る」は似ています。

察するという事を正しく理解していくことで、物事を実際に見ることなく確信を得ることができるようになる状態を経験するようになります。

悟り(目覚め)は目に見えません。

思考でも理解できません。

それを人間の観点に当てはめてはっきり認知しようとする事で、誰も理解できないものになります。

そこには、人間の分かるはずだという前提があります。

そして、その前提が崩れない限り悟り(目覚め)が訪れることはありません。


ですから、「私がやっている事は破壊だな」と感じることがあります。

幻想を破壊していく破壊者。

イメージはスサノオやシヴァです。

本質はもともと在って、作り上げるモノではありません。

本質と違うものはいずれ壊れていきます。

その、原理原則を察した者は違うものに違和感を覚えるようになります。

いらないものはいらないという事を悟る時、ただその様にします。




察するという事は何かに限定するという事ではなく、確実な事だけを情報として方向性を絞っていく、そして、真実に近づけていく事です。

誰かが言っている。

そこから察することができることはなんでしょうか。

・・・・

・・・・・

・・・・・・

その誰かがそのように考えて、しゃべっているという事から、その様にしたいという事がわかります。

すると、なぜそのようにしたいのか察する準備が整い、ケースに応じて、何か察することになるかもしれません。

察する準備が整うという事は、そのまま見ることができる姿勢ができたという事です。

すると、当たり前なことが当たり前に分かるようになります。

それを繰り返していると、相手の話の向こうから伝わってくるものが読み取れるようにまでなっているかもしれません。

それも、私からすると、起こっている事ですから起こっているようにわかるというお話にすぎないのです。


人間の観点では五感で感じることができる事しか認知できません。

人の観点から、五感を超えて起こっている事を認知できるようになります。


だからといって、霊能者や神ごとに携わっている者が人かどうかは別の話です。

筋とか道理の話を書きましたが、それも、理を察しているからこそ分かる事です(解るではない)。

人間として解ったようにふるまう事と、分かってふるまう事は違います。

この文章一つについても察することができない人には理解できません。


さて、今回このブログの読み方を察した方、悟った方がいると思います。

解った方は分かっていない事になります。


考えながら読んだ方にはわからないのは察してもらわなけれな伝わらないところを伝えようとしているからです。

これ場や文章では伝わらない事は、言葉や文章から察するという事ができない人に伝えることはできません。


察するという能力。

これは日本人が得意とするとことでもあります。

外国人にははっきり伝えないとわからないという事になりますから、本質的な事を言葉から理解することが難しくなります。

察するという文化は、これから日本人が進化するためにとても必要な文化です。

日本人は高い情報リテラシー能力を潜在的に持っています。

それを諸外国に目をつけられたらどうなっているでしょうか。(こういった一文も察してください)

外国人からしたら、上の一文も暗号のように作用しているかもしれません。

言わなければ分からないという考え方は人間の考え方であり、エゴが介在しています。


このブログ、察しながら読むことで理解が大きく変わっていきます。

そしていつか、書かれている事を悟るようになるかもしれません。

それには長い年月がかかるかもしれませんが、そこまで達した時には人生が大きく変わることになるでしょう。


2020/05/30 16:19 差取り TB(0) コメント(0)
何かしらの新しい事を知った時、人間の意識の動きがわかれます。


情報を得た時の意識の動きをみると、そこで思考停止する人間は殆どです。

思考停止とは未来に対して閉じるという事であり、無自覚な自分本位であり、それを傲慢とも言います。


そのような事が起きるのは、

情報を正しいか間違えているかで判断するためであり、判断を超えた思考を持たない。

というのが一つの理由です。

他にも理由はありますがこれが起こるプロセスをたどって書きたいと思います。

個人として、対応力ああればあるほど未来に何が起こるのかという事が気にならなくなります。

(懐が大きいという表現がありますが、そういった事を示しています。)

情報を得た時、もしくは得ている時、人間は情報に意識を向けいるのではなく、自分の過去の記憶を探りに行っています。

その動きが、情報を正しくとらえられない原因であり、自分を守ろうとする行動は必ず過去の記憶と関連しています。

あなたが譲歩に触れている時を観察してみてください。

かなりの割合で情報を聞いているのではなく、過去のことを考えています。

年齢を重ねれば重ねるほど、人間としての経験が多くなり、過去も多くなります。

過去の経験が蓄積されながら、過去を見る習慣も習慣化されていく傾向にあります。


年齢を重ねた人間ほど人の話を聞けなくなるのは、話している最中に自分の過去に意識を奪われているからです。

これが高齢になった時、何を起こすかは想像がつくと思います。

自覚をしない人間は、必ず、こういった傾向をみせます。

そして、記憶の海に投げ出されそこを漂い続けます。

ただよいるつけるなら苦しくないのかもしれませんが、多くの人間がそこでおぼれています。

その海は誰かがつくったものではなく、本人が創ったものなのです。


情報が気になればなるほど、思考停止を起こします。


過去の情報=記憶

これに縛られて生きている事が人間です。(言い回しを間違えているわけではありません)


ここからは可能性を広げる者の話です。

可能性を広げる者は情報に対していつも開いています。

人間の考え方では、一つの情報で決めつけないというお話に落ち着くかもしれませんが、そうではありません。

どんな情報にも影響を受けない自分自身をつくる事が最も重要な事です。

その在り方が、どんな情報でもそのまま見る事ができる姿勢をつくりだします。

しかし、ここにはもっと深い意図が流れています。

表面的な理解は可能性を閉じる理解です。

人間の理解はどんなに解ろうと、思考停止を起こします。

思考を使うから思考停止を起こします。

今ここで書いている事は理解が深くなるにつれすべてに繋がっていきますから、「解かった」と括らないでください。


可能性を広げる者はここまで読んでほとんど理解していると思います。

可能性を閉じている者は、答えなどないと言います。


それ程、見ている世界に差ができるのです。

ハッキリと答えのように書かないとそれを答えだと認識することができない時点で、その理解は表面的な理解にしかなり得ません。

それを防ぐためと、わかる可能性、種を既に持っている人のみに伝える事はこのような書き方で可能となります。

昨日は、このブログの秘密について書きましたが、これも一つの秘密です。



約束している時間に迫ってきましたので、ここで終わります。







これは差取り塾内部の人もそれほどきにしていないと思われますので、ブログに隠された秘密をしって有効性を高めてもらいたいと考えています。

さて、差取り塾において進まれている方は、このブログは経典のようだとおっしゃいます。

読む観点で何層にも意味が分かれていくように書かれている事。

そして、そういった事を感じながら読んでいるうちにより高い境地に触れていけるという事。


何度も書いていますが、文字からだけの理解をしようとするととても地味で綱らない事が書いてあるように見えるかもしれませんし、難しく感じるかもしれません。

ブログに関しては、相手が目の前にいませんので相手に合わせるという制約がなくなります。

すると、多くの場合相手がいて話すときよりも深いところをみながら書くことになります。


日本語としては難しい言葉を使う事は意識的に避けていますし、口語体で書くことで文章を超えたところで理解が起こる事を意図して書いています。

助詞についても、意味があって使っています。

私に理解が起こる

私の理解が起こる

こんな感じです。

個の世界観の違いを感じながら読んでくださるなら、このブログの世界の広がりを感じ取れるようになっていくでしょう。

また、

私が理解をする

私に理解が起こる

とした時、観点によってさまざまな捉え方になるはずです。

こういったところがわかるとこのブログに書かれている事の理解が広がっていくように思います。

日本語は言葉を超えた世界観を表すことができる世界でも珍しい言語です。

以前、英訳を試みたことがありますが、日本語の意味を正しく英語で表すことはとても大変という事がわかりました。

実際Twitterでは別アカウントで英語バージョンが流れています。

その英訳は、大悟に達するくらいの英語の専門家が訳してくださったので、本質が損なわれないで英語にすることができていると思います。

因みに私は英語は全くダメです。


このブログを人間の観点から読むなら全く価値を感じないはずです。

なるべくエゴが反応できない、反応しないように書いているからです。


個にブログを良いまたは何か感じる方は本質を垣間見ている方です。

その先に進むためのチケットを手に持っている方といってもよいかもしれません。

そういった方はそれなりの修行や修練をすることをお勧めします。


ある一定の境地に達した方がこのブログを読むなら、沢山の恩恵があるはずです。

その100倍1000倍の速さで進むのが差取り塾で修練を行うという事です。


日本語が織りなす思考を超えた感覚は人間を高みに導いていきます。

近い将来多くの日本人が日本人であることに感謝することになるかもしれません。

このブログを意味を損なわずにほかの言語に翻訳できません。

外国語は日本語の表現力の高さに遠く及ばないのです。


このブログに真剣に向き合えば向き合うほどその人を高めます。

できれば何度か読むことをお勧めします。


悟りの道は身近で手の届くことから繋がっています。

難しい言葉や、勉強はいりません。

なぜいらないかといえば、それが邪魔になる事が多いからです。

人間が人になる時、純粋さが求められます。

また、真実だけが求められます。

人間が人間の観点で学んでいる事は人間の観点でしか通用しない「考え」です。

そこに真実はありません。

人とうまくやっていく方法・・・・

人間の視点でしか出ない発想です。

プレッシャーに勝つ方法・・・・・

差をつける仕事術(的な)・・・・・

幸せに生きる方法・・・・

ストレスフリーな生活・・・・

etc.

すべて人間だからこそのはっそうなのです。

人は幸せに生きようとすることなく幸せに生きています。

誰の世話にもならないし教えもいりません。


人間は自分の不足を外の何かで埋めようとします。

それ自体がすでに不幸な考え方であり、不幸を生む考え方であると気づくなら、人間をやめて人になろうという発想になるかもしれません。

このブログは人間にとってつまらない事で構成されています。

人間は都合で生きている動物であり、空腹感を満たすためなら手段を択ばない段階まで行くと、獣と一緒です。

自分にとって都合の良い事を実現していくことと、夢を実現することは似て非なるものです。

そういった違いがわからないのが人間でもあるため、そこから目を覚まさなければ一生かかっても争いから自由にはなりません。


そこで大切な事ですが、筋とか道理というお話になります。

私に全く争いがないかというとそうではありません。

なぜなら、個人的な都合を押し付けて来る人がいるからです。

その時、私は相手に対して怒りを見せるかもしれません。

そうしてみた時10人に1人くらいは改心が起こります。

するとその人間の周囲が明るくなったり、会社を経営している方は会社の寿命が延びたりするのを感じ取ることができます。

本当に救いようのない方は、地獄の扉から鎖で縛りつけられたような状態を感じるようになります(あくまでたとえですから本当にその様になっているわけではありません)


地獄とはどういったところなのか、以前も書いた記憶がありますが生前の生き方がそのまま引き継がれることになりますから、死んだからといって必ず天国のようなところに行けることはないのです。

むしろすべての人間はそれぞれの地獄に行きます。

人として生きる事をしないかぎりそれを避けることはできません。


話は逸れていますが、都合とは地獄へのパスポートでもあります。

死んだとき都合が地獄を決める大きな材料になります。

執着とも言えますが、都合といった方が多くの方にとって身近に感じると思います。

執着を無くそうというのは自分の都合です(笑)

同じように

執着を無くそうとする執着を持った悟りたい人でいっぱいです。


執着を無くさないと悟れないと考える人間は、執着を無くそうとします。

その時点で悟りは遠くなります。

なぜなら、執着とそれをなくしたいという都合で争いが起きるからです。

人間がいくら考えても執着は消滅しません。

考えなければ執着は跡形もなくないのですが、「考えない」という風にしか考えられない人間にとってそれも至難の業です。

それでも、人間は人になっている瞬間があり、その時は輝きを見せます。


人間は他者との争いだけではなくその前に自分自身の中が戦争状態である事に気づき、戦争を終わらせなければいけません。


話を少し変えます。

私は、イエスキリストの言う神の国の住人です。

その国を守るためには手段を選びません。

こう書くとなんだか物々しく感じると思います。

普通に書くなら・・・・・

理から外れた行動はしない

というシンプルなものです。

それを曲げさせようとするものが現れた時であってもそこから動くことはありません。

こうしていると必ず肯定的な結果に繋がっていきます。

ですから、

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

というのは合理的な生き方なのです。

人間の都合に思い悩まず、まずは自分自身の内側にある「それ」・・・・純粋な自分自身で生きる、もしくは純粋な意識で生きていく、それができなければ、道理や筋を一度勉強してみてやせ我慢してでもやってみる・・・・


するといつの間にか自分自身を救っている事になっていきます。

これも宗教です。

信じる神様は自分自身です。


それを卒業した時、信じることなく知っているという境地に立つようになります。

すると恐れはほとんどなくなります。

ほとんどと書くのは命の危機に関する恐れはとても純粋なとこるからやってきていて、そこを超えるまでその恐れは消えないからです。


都合を優先させるエゴは、とても怖がりです。

そして暗いところを好みます。

白日(真実)の下にさらされると消滅してしまうからです。

本来そのようなものはないかからです。

それは人間社会特有の人間を人間として縛り付けておく鎖のようなものです。

その鎖は地獄の鬼がつけたのでしょうか。そうではありません。

自分自身でそれをやっているのです。

そのプロセスを知ることを都合が遮ります。


人間の都合は色々なところで争いをつくり出します。

争いの根本は個人的な都合です。


個人的な都合を優先させて生き続けていくことで人間は何の成長もないまま死んでいきます。

都合を降ろしてみた時初めて新しい気付きが起きる仕組みになっています。

それは、「大いなるそれ」への導きでもあります。

執着という前に都合を降ろしてみる。

それが難しければ、自分の都合で考えているという認識を持つこと。

これは身近で誰にでもやろうとすればできる事のように思います。


これを多くの方が実践するだけで世の中は大きく変わるように思います。
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