特別なことをやめると自然になります。
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プロフィール

差取り塾

Author:差取り塾
悟りの目線から明人が色々伝えさせて頂きます。
自由について、愛について書いています。

自覚を伝えているのは、悟ってほしいとか、覚醒してほしいとかそんなことではありません。

人間として生きていて、目の前に広がる景色以外の景色があるんです。

その景色は目には見えません。

しかし、在る

無いものを在るといっているのではないのは少し勉強した人なら分かると思います。


私が何かを語るとき、そこの景色を見ながら語ります。

そこには記憶などの思考を使うわけではありません。

確かに広がる景色。

それを見ながら、それをただ見て、答えればよいのです。

そうしているうちに同じ景色を見る仲間が増えてきました。

その仲間とは、同じ景色の中で話をするわけですから、話が合わないわけがありません。

頂上


本でしか見たことない景色を語る人と、実際の景色の中で語る人は一見区別がつきません。

実際の景色を見たことがない人からすれば分かる方がおかしいのです。

しかし、写真集で見た景色をあたかも見てきたようにお話する人は後を絶ちません。

そして、その景色を見たことない人を巻き込んでいきます。



私は、景色を教えることがどれ程バカバカしい事かをどうやって伝えたらよいのでしょうか?

景色を知らない人たちが写真集の景色を語る人を見破れるはずもありません。


だからこそ思うのです。一緒に景色を見せたいと。

景色を見た人はすべてを理解します。

写真集を勉強してその気になっている人の話も、明らかに分かるのということは、説明するまでもありません。

同じ景色を見ている人は語ることなく理解します。

だからこそ、その景色を見せたい。


それを登山に例えるのなら、いつも一緒の景色を見ていないといけません。

なぜなら、登山において自分だけ上に登って、その景色を伝えても何の足しにもならないのです。それを聞いたからといって、いる場所が変わるわけではないのです。

それどころか、上から見ていてもその人がどういった景色で、どういった足場で、どういった苦労をしているかは分かりません。

同じところを一緒に歩く。

どんな風に歩いているかわからなければ頂上に到達させることはできません。

すべての人がその山に登るのは初めてです。

ガイドは、一緒に歩き、時には背中を押し、時には元気づけ・・・・・・ガイドの役目をひたすら続けるのです。


ある人は小山に登ってそれらしく語っています。

それを聞いてその話に飛びついていくのなら、一生本当の頂上には到達できません。


だからこそガイドは大切ですし、ガイドがいないという事は大変なことなのです。

自分の足で歩いて登った人は、違っていてもいずれ気づきます。そしていいガイドを見つけます。

景色を本だけで知ろうとする人は頂上には立つことはありません。

いつまでも本の知識を語り続けます。

そして、頂上に上った人を評価します。

この人は頂上に上った人なのか、どうか?

登ったことのない人同士で議論をします。

それは自分の足で登ったことがない人がすることです。


なぜこんなことを書いていると思いますか?

登ってほしいんです。自分の足で。そして、景色を見てほしい。そしたら、語ることなく分かるんですよ。

頂上に着くまでの時間はそんなにかかりません。半年、1年一生懸命やればほとんどの人が頂上に到達します。

※それはある山についてです。頂上まで登ったらそこから目指す山がまたありますし、そこから登り始めている人も沢山います。

その山の頂上に到達した人たちはこの世の迷いから解放されます。

その景色はすべてを語ります。

景色を知るだけでそれを知るのです。


概念は何もいりません。

何も勉強する必要はないのです。ただ、到達するだけ・・・・・


イエスキリストは言いました。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

この意味がもうわかりますね。

到達したものは、すべて知るのです。

しかし、普通に考えるような「知る」ではありません。

何かを新しく知るのではなく、ただ、頂上の景色を見ているだけなのです。

だからその景色についてすべて語ることならいとも簡単にできます。

イエスキリストの言葉を一生懸命理解し解釈しようとしているなら、山に登らないで、それについて書かれている本を読んで想像を巡らせている状態と一緒です。

イエスキリストが見ていた景色と同じものを見るだけでいいんです。

そしたら何を語っていたのか?そんなことは目の前に広がっているんですよ。

難しいなんてことはあり得ないし、解釈というプロセスも必要ありません。

イエスキリストはある山のある景色をみて、それを語っただけなのですから・・・・


イエスキリストでもお釈迦様でも、えらいお坊さんでもだれでもいいんです。

そこら辺の子供が景色見て語る事も同じです。そこに行ってみたら分かるんです。


それなのになぜ、景色の勉強をしなければいけないんですか????

明らかにおかしい事です。

なぜ、それを勉強させようとするのですか?

知らないからです。

これをやらなければたどり着けないといって、ワークを押し付けるなら、知らないものがやる事です。



初めての登山。登山道を進めば進むほど初めての経験があります。

その度にそこに引っかかっていてはあっという間に人生が終わるのです。

しかし、一緒に登り切った時何が起こってるでしょうか?

絶景と、そこに共に登った寸分の狂いなく語り合える仲間がいるのです。

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2017/08/18 12:00 悟り TB(0) コメント(-)
ファンタジーはいつもあなたの手の届かないところにあります。

ですからあなたがファンタジーと感じるものは手に入れることはできません。

ディズニーの映画・SF映画

宇宙・宇宙人

高次元・神

超能力

億万長者

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そこにファンタジーを感じて、追い求めたとしてもファンタジーはファンタジーのままです。

ファンタジーに満ちた人は人を引き付けます。

ファンタジーは人を魅了する力があります。

そして人を盲目にします。

今あなたが追い求めるものにファンタジーを感じてるなら・・・・

現実的な人はファンタジーを舞台から引きずり下ろします。

そして自分のものとしていくのです。

表現が少し悪かったかもしれません。現実的な人は地に足をつけてそれに向かい努力するのです。

そこで汗を流して努力する心にはファンタジーなど消え去っています。

そしてファンタジーはすでにファンタジーではなくなり現実に変わりはじめます。

人の選択はファンタジーと現実路線があったとき、90%以上の人がファンタジーを選択します。

ファンタジーを選択した人たちはファンタジーの中で生き、

現実路線を選択した人たちは現実路線を生きていきます。

自覚をしていると、そこにファンタジーはありませんし、必要ともしなくなっていきます。

そしてある一体となりはじめると、過去・未来を見通すようになり、千里眼のような能力を発揮しはじめるようにもなります。それはごく一部の例に過ぎません。

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そこにファンタジーは全くありません。

できて当たり前だからです。

当然できることにファンタジー感じることはありません。

ですから話にものぼりません。

いずれできなかったことこそファンタジーだと知るのです。

それと同じように、今まで苦しくてしようがなかった環境にいながら、今、楽でいられる事が普通になると嬉しいなどということもないのです。

ですから私が導いた人達からの感謝は薄いです。

たまにはもう一度突き落としたくなります(笑)

ファンタジーをファンタジーとして取り扱うのではなく現実的に自分のものとしたい方、また、ファンタジーに違和感を抱くようになった方、ファンタジーのおっかけに疲れた方・・・・・・

差取り塾で本当のファンタジーを学ぶことができます。
2017/07/30 23:01 悟り TB(0) コメント(-)
美を追求しそれを表す人。

表面的でも美しくなることに力を注ぐ人。

美を追求するあまり、すべてをなげうつ人。

・・・・

世の中「美」を追い求める人は数多くいます。

「美」とは何か?

それを哲学のように持っている人も追求の過程で通る道。

しかし「美」を哲学したとしても、「美」を知っている事とは違います。

「美」の哲学は「美とはこうだ」という本人の主張なのですから。

人は「美」の追求を通してある深淵に触れることになります。その深淵を定義することが美の哲学。しかし、定義に意志(意思)が入るので主張になるのです。

「美」を追求する人は深淵に触れています。

そして

「美」を求める人は表れたそれを見て美を感じます。

表面にこだわりその表面を良くするための努力で少し内面を向いていくことになります。


■なぜ美を求めるのか

「美」を追求するする人も求める人も、どうして「美」に魅了されるのか探求する人は稀です。


茶道・華道・弓道・・・・

道を追求する人はいますが、なぜ追求したいのか知ろうとする機会はほとんどないことと同じです。


追求に忙しく意識を使っている事で、追求した結果をもって終わります。それを哲学といいます。

そこからさらに極める事で、美が自分のものとなります。

「美」を求めるとき、あなたのどこかに「ある青写真」があります。知っているそれに魅力を感じるから求めるという動きが起こります。

その「美の衝動」を羅針盤に美の究極に進もうとしますがそれは衝動であって、「美」そのものではありません。

衝動を超え、それを知り「美」が自分のものとなったとき、哲学は消え、「美」のあるがままを知ることになります。

すると芸術性を有するものは総て次元が変わります。そして見るもの総てに芸術性をみることになります。


「美」の追求を超えて(終えて)こそ、「美」を悟ることが出来るのです。

茶道


2017/07/28 10:19 悟り TB(0) コメント(-)
あなたが自分自身を生きないのはもったいないことです。

あなたがあなたを生きれば、自然にあなたが活きることになります。

それはあなた自身がそういった可能性を持っているからです。

どうしたらあなたがあなたを活きることができるのか・・・


それはそんなに難しいことではなく誰でもやると決めればできるようになります。


■演じることをやめる

多くの人は演じ続けながら生きています。

演じるという事は本来の自分自身ではない別の人になっているという事です。

例えば・・・

前にする人によって、強気になったり弱気になったり・・・優しくなったり・・・怒りっぽくなったり・・・

弱気になっている→弱気な人を演じている

その時、弱気な考えしか出てきませんよね。だから負けるし、負ける可能性を大きくしているわけです。

すでに負ける人を演じ始めているのですから、負けることは何ら不思議ではないのです。

あなたは弱気なのではなく、弱気を演じているという事に気づかなければいつまでもあなたは弱気と決別できません。


強気も一緒

演じているだけですから、あなたが強いという事ではないのです。強気を演じようとする自分はむしろ弱いのです。

強気になるのは必ず何かの後ろ盾があります。その後ろ盾が外れた瞬間強気は倒れてしまいます。

そういう場面を何度も見たことがあるのではないでしょうか。


話はそれましたが、演じることで本来の自分自身の輝きが失われてしまっているのです。

自分のことをどうしようもないと考えていたとしても、そのまま生きることをしてみてください。

どうしようもない自分自身を演じていたことに気づくのなら、重い鎧を脱ぐことになるでしょう。


あなたはいろいろなところで演じています。

そのことに気づくのなら、演じることが気持ち悪くなっていき、そのまま生きるようになり、あなたが輝きだします。

舞台

「私は蚊も殺しません。外に逃がします・・・」っていう人・・・・・・・・・・・・・

何かにとりつかれている人は、とりつかれていることを演じているだけです。

やさしさにとりつかれている人

やさしさは考えて行うものではありません。活き活きとしている人の輝きに含まれる成分です。

演じていては本当のやさしさを知ることはできません。

自分自身で生きている人にとっては演じている人の演技が気持悪くて仕方なくなってきます。

もしくは演じている人をほほえましく見ることもできます。

一生懸命演じる幼稚園の発表会のように見えるからです。

そのように見えるなら、一生懸命何を考え演じているのか読み取れるようになっているはずです。

隅っこで演じきれない園児(笑)がいたら?

反対に真ん中で一生懸命演じている園児がいたら?

演じることから自由になった時、本当の演技が分かるようになります。

無我夢中でやっているときはわからないものです。

この世の中、大根役者から一流の役者までそろっていますが、演じている事には変わりないのです。


輝いて見える人は演じることをやめ、自分の本質から表現し始めた人たちです。
2017/07/22 16:23 悟り TB(0) コメント(-)
カリキュラムといっても、実際に決まったマニュアルがあるわけではありません。

だからと言って闇雲にお伝えしているわけでもなく、一人一人それぞれの進み方に添ってお伝えすることで緻密に計算された結果につながっています。これから先マニュアルを作って一緒くたにあてがう事はありません。

特に決まったことはありませんが、結果的にそうなっているということをここでお知らせ出来ればと思います。


まず「悟る」

と言うことを規定しないでください。その上で読んでいただくとわかりやすくなります。


本質は言葉では表せません。

ですから、言葉を聞きながら「こういうことかな?」と分かることが必要です。

それを別の言葉で言うと

「言葉から《悟る》」

といいます。

特別なことではありませんし、誰でもその気になりさえすれば出来ることです。

それはいってみれば小さな「悟り」。


その「悟り」を重ねて一段一段登っていくと・・・(分かりますね?悟ってください)

気付きではなく「悟り」を呼ぶお話を通して意識が広がっていくのです。


その広がりはマスターからするとはっきり見えますし、悟った瞬間が分かります。

ですからどの段階に居るのかもハッキリしていますし、嘘もごまかしも利きません。

マスターは一人一人見て、その人が悟れる範囲の話をし、それを導くことをします。

ここまで読んで何か悟れましたか?

字面を追った人は分からないと思います。


茶道で形だけ真似しようとしても美しくありません。

それはそこに流れる何かを悟っていないからです。

本


自分自身で悟りを呼ぶことが出来るのですが、一人では難しいのです。

師が居ると言うことはそういうことです。(ここも悟るところです)


これを読んでも何の役にも立たない人は悟れていないだけであって、悟れない人ではありません。

カリキュラムの話から脱線しましたが、「悟り」という壮大なモノを追っているなら悟りから遠ざかります。

そういったアプローチしか知らない人が「悟りはやってくるもの」「待つしかない」とかいい加減なことを言います。

「悟り」は身近なところにあって、それに気付く(それを悟る)ことでえらいお坊さんの境地に至リます。

差取り塾ではそれをハッキリ、ステップバイステップで伝えています。

だから途中で辞めてもそこまでの悟りは経験できるのです。

(途中で辞めたらだいたいなにをやっていたのか分からなくなってしまうし、なにやってるのか分からないから辞めるのですがのが・・・)

価値は差取り塾に見るものではなくその人自身にみるものです。

己に価値を見いだした時、それを導く師に感動とともに感謝する事が出来ます。

最初はそれでよいのです。

差取り塾のカリキュラムを悟っていただけたでしょうか?

分かっていただけないので悟っていただくのが差取り塾の指導です。

分かるということを超えて分かったときが悟れたという一つの現象です。

2017/07/19 14:04 悟り TB(0) コメント(-)
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