そのまま「観る」という科学
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差取り塾

Author:差取り塾
社会の中で地に足をつけて活きるという事を突き詰めると、思考を超えた合理性を帯びるようになります。

コロナウイルスについての動画についていたコメントに「至極真っ当」という言葉を見たのでそれにつて思ったことを書いてみたいと思います。

その時の至極真っ当という言葉から感じる感覚は

攻撃性です。

至極真っ当なことを言っているのだから、批判に会うのは当たり前、批判することが当たり前・・・・・

人間が考える至極真っ当な事は殆どが現代社会から影響を受けた考えです。


人が死ぬ事を悲しむ

それは人間の捉え方です。

人間がコロナウイルスで死ぬことを肯定する事を批判するのは至極真っ当な反応・・・・・

という事になるでしょうか。


死を肯定するという事はとても危険をはらんでいるように思います。

しかし、否定か肯定かで考えているなら「肯定」について否定的に感じるのも無理はないかもしれません。

そして、その観念の中でしか考えられていないという表れでもあります。


否定が無いとき「肯定」とは向き合って起こっている事を知り、起こっている事を起こっているように認めている事です。

それをわからないでその事について議論しても、話のレイヤーが違いすぎて話がまとまる事はありません


至極真っ当という、自分の観念の中にしかないものを、不特定多数の人間に適応している時点で、視野の狭さを露呈しているという事です。


多くの人間が主張している時、至極真っ当だと考えている事を主張します。

そういったケースばかりではありませんが・・・・・


正義感が強い人間ほど、主張に熱がこもります。

正義感が強いという事は、良い事でしょうか。

そうではないと考える人も沢山いらっしゃるように思います。



話は変わって、人間を危機に落とし込む存在は悪でしょうか。

あなたを窮地に追いやる存在は否定的な存在でしょうか。

この質問を自分自身に投げかけた時、どのような動きが起こるでしょうか。

それがあなたが今知っている境地を表しています。

今起こっている事は始まりにすぎませんが、次の危機にどの様に対処するかと考えるならそれは人間の行為です。

人間の行為は理を無視する行為です。

理を無視した結果、事態は収束することなく、進んでいくことになります。


塞翁が馬というお話は、人間の観点でものを考える事と、達観した者がそれを人間に少しでも伝わるように教えていると見る事も出来ます。

人間が人間でああり続ける限り、現象が人間に味方をしているのかそうではないのかを知ることはできません。

現象は常に起こっていて、それを良い悪いと判断して、思考停止するのが人間の観点です。

人間の観点では塞翁が馬の意味を人生の幸不幸や吉凶は変転するものであり、人間の予想や思惑どおりにはならない。

くらいにしかとらえられません。

実際起こっている事は思慮深いのおじいちゃんの話ではないのです。

人間は自分の都合で信じる信じないを決めることで、大きな失敗を誘発しています。

好き嫌いで判断することも含まれます。

私がこの道に至るまでの事を思い出してみるなら、私にとって不都合な事を受け入れる機会が随分多かったように思います。

私を擁護するような人を受け入れ、しかる人を遠ざける・・・・

それとは逆の事をした時、道が開けてきました。


私の周りにおいても、自分の都合で人を選んでいる人間は意識が幼い傾向があります。

その幼さが様々な摩擦や、しこりを生んでいくことを見てきました。


あなたが自分にとって都合が悪いというだけで人間関係を決めているならそこに向き合ってみる必要があります。

それを改める前に向き合ってみる事。

そして、自分自身を省みて必要であれば行動を起こしていくことで、10年後が大きく変わります。

半年・1年後を変えたいのなら、自覚をお勧めします。


最初に失敗と書きましたが、失敗という概念は私にはあまりありません。

その様に表れているだけであって、「失敗=現れ」であるからです。

その現れを通して、表しを知っていくことが気づきであり、小さな悟りといえます。

その頻度を飛躍的に上げるのが差取り塾で学ぶという事であり、私が何か教えているわけではなく、悟りの機会を逃さないようになることで、1日で数年分以上の経験値を積むことが可能になるのです。

これを読んで何か学ぼうとすることが、合理的でないという事は以前からお伝えしていますが、これで伝わって人も多くいらっしゃるかもしれません。

こういった状況だからこそ、どれかを批難するという事に向き合ってみるべきです。

今の政治を見ているとわかりやすいのではないでしょうか。

どうしようもない政治家は批難の対象になりがちです。

非難の対象になりやすい人間を批難している時どのような事が起こっているでしょうか。


批難され人間が批難の内容を精査するでしょうか。

批難した人間は批難以外に何をしているでしょうか、生産的な事をしているでしょうか。


批難は生産的な行動でしょうか。


批難しても動かない人間は動きませんし、それどころか閉ざしたり、ネガティブな反応を起こしやすいものです。


そういった事を総合して論理的に考えた時、避難することはどの様な効果を生むでしょうか。


だからと言って黙ているべきというお話ではありません。

何か言わなければいけないという話でもありません。


今できる最善の事を行おうとした時、避難はそれにあたるでしょうか。


「皆さんも一緒に怒らなければいけない!」

と言っている偉い先生のお話を聞くと、なぜ一緒に怒らせようとするのか、私には合理性を感じません。

今だからこそ、今できる最善の行動をしていく。

その行動が未来をポジティブに変えていきますし、その選択の瞬間から、好転が起こっているのです。

未来は今に在ります。

というのは人間の考え方ですが、未来は在ります。

在るのだから、それをみる事も変える事も出来るのです。


批判している時、そこから遠いところにいるのではないでしょうか。


大切な事の一つ、

(批難することで)未来を誰かに変えさせようとするのではなく、自分で変えられることから変えていく。

それも情報リテラシーを通して得られる合理的な理解です。

今回の混乱は意図的に作られているというと陰謀論のように聞こえるかもしれません。

陰謀は人間が考える事ですが、人知を超えたところが何を望んでいのか知るなら、今回起こっている混乱がこれで終わりになるかどうかわかってくるでしょう。

望んでいるという表現も想像・妄想を呼ぶ表現です。


着地点、収束点があった時、人間の行動が制限されればされるほど、そこに向かわなければ助からないという現象がおきます。

表面的な薄い話にしてみるならそれに気づいた人間だけ助かるという言い方をする人がいるかもしれません。


「それ」を知って混乱を迎える事と、知らないで混乱を迎える事の違いは膨大です。

混乱を喜ぶ勢力は別の混乱に沈むことになります。

混乱を恐れるものは混乱に翻弄されます。

混乱に向き合う者はそこで一筋の光を見る可能性を秘めます。


混乱が維持されてこそ次の段階に繋がっていくこともあります。

混乱を制することが今回の混乱の答えではありません。

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