特別なことをやめると自然になります。
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プロフィール

差取り塾

Author:差取り塾
悟りの目線から明人が色々伝えさせて頂きます。
自由について、愛について書いています。

悟りとは○○だ

と規定する事は、間違っていると師匠は言っていました。

私自身も自覚をしていてわかることは、確かにそうだな~ということ。

「こうやったら悟れます」とか、「こうやったら簡単だ」みたいなことは安易にいわない方が良心的。

本当に仕組みがわかれば簡単なのですが、仕組みを分からないうちから簡単だと言えるならそれはどうかと思います。

今までやってきて、やればやるほどシンプルになって伝えることが本当に簡単なモノになってしまいましたが、簡単すぎて分からない人もいるかもしれません。

何故なら人は簡単なことに答えはないと考える傾向にあるからです。

悟りは特別なことではないのですが、特別感が好きな人は特別に捉えようとする。だから簡単ではいけないし、みんなが悟ったら良くは思えないのは特別感が脅かされるからです。

特別感が好きな限りその人にとって悟りは特別であり、とても難しいものになります。

何故私が普段簡単な言葉を使うように心がけているかというと、特別感が邪魔になるからというのも理由の一つです。


「自覚」とはそうしている「私」を知ることが大切・・・に思われがちですが、それは初心者の「自覚」(野球でいうとファールチップ(かすっているけど前に飛ばないという意味)

「私」を愛することが自覚をする人が大切にしがちですがそれは子供の自覚です。

一所懸命「私」を愛そうとしているのを実際みるとただの自慰行為を行っているだけの人が殆どです。それで気持ちよくなって、喜んでいるのですからそれを違うというのも酷なこと。嫌われただけでした。

大手を振るって自慰行為を出来るのだから、好きな人ははまり続けるでしょう。

知っていたらとてもできません。

そもそも満たされた「私」は愛を必要とするのでしょうか?考えれば誰にでも分かることです。

しかし、愛が足りないと考える人には愛と呼ばれるようなものが必要なのは確かです。

「私」を愛することに励んでいただきたいと思います。



「私」を知ること

大切なことですが、これが難しい、、

文章では伝えられないばかりが、書くと誤解をつくり出すきっかけにしかなりません。

安易に考える人は知るために掘り下げて考えてしまいます。

心理学的手法では「私」を知ることは不可能です。

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師匠におんぶにだっこでいた人が心理学的手法で悟ったと勘違いする事はよくあることです。

そういった人の10年後もみましたが、苦しみに満ちていてとても自覚を実践している人には見えなかったことを覚えています。

私の師匠ですが、悟りにおいて本当のマスターだと今でも思います。

しかし、師匠が伝えていることを理解している弟子は殆どいないように思いました。

悟りってそんなに難しいのか?

自覚ってそんなに分からないモノなのか?

正直私はそれがわかりません。

なんで自覚が分からないのか分からないのです。

師匠はそのまま伝えているのに弟子が勝手な考えを付けて、都合のいいように解釈するのをみていると何ともいえない気持ちになります。

何故弟子が分からないのか?

それを分かるための努力もしました。

それはここでは書けませんが、今では自覚を伝えるときに大いに役立っています。

自覚は多くの人にとって難しいようです。

難しいという事すら気付けない人も沢山います。

自分の都合で解釈する人は難しいし、難しくしていることにも気付かず、師匠の力を借りているので難しいとも感じない。

無自覚の中で自覚している事ですが、それを知っている人は稀です。

自分でやろうとしない限り分かることはありません。

お金が目的である弟子は自分を窓口にして自覚っぽい事を教えつつ、師匠のところに送り込みます。そして、自分の功績のように宣伝しまた呼び込みをおこないます。

それも悪くはないように思うのです。

結果的に呼び込まれた人は悟りを得ることになるのですから。

しかし、お金を取って呼び込んでいる本人の末路は恐らく・・・

しかも囲い込もうとするなら益々です。

囲い込まれた人も別のモノを背負います(背負わされているようにも見えますがおろすことができるのも本人次第ですから)。



ここまで書いてきましたが、私としてみれば書かなくてもよいことを書いていますし、書く理由も分かろうとしないとわかりません。



明らかに適当な「自覚」がこの世を独り歩きすることは、師匠の顔に泥を塗るのと同じ。

だから黙ってはいられない・・・・ということでもありません。

師匠はそれを知っていて警告をした上で許しているのですから。

「自覚」は今のところ適当なままでいると思います。

仏教もその様に今まできたように、お釈迦様の教えをしっかり伝えられたのは開祖と極一部の限られた弟子でした。

その限られた弟子は「自覚」に限っては日本にいないのかもしれません。

「自覚」を文章で伝えることが出来ると考えるのは自覚を知らない者の考えです。

師匠はそこをうまく悟れるように話してくださっていました。

師匠でさえ「自覚」とはこういうやり方だとはハッキリ言わないのです。


間違った「自覚」を広めても現世的に罪は無いどころか儲かります。

しかし、違う観点から見たときはどうでしょうか?

総て見ていた「私」は何をしようとするでしょうか。

神は罰を与えることはあり得ません。

「私」を知ることとはそういったことでもあります。

これを読んでいるそこの「あなた」突き刺さるものがりましたか?それがあなたの未来を示唆しています。

私が言っているわけではありません。


今回はこれくらいでいいしょうか?

「  」(^_^)ノ

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2017/08/11 12:00 明人の独り言 TB(0) コメント(-)
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