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特別なことをやめると自然になります。
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差取り塾

Author:差取り塾
社会の中で地に足をつけて活きるという事を突き詰めると、思考を超えた合理性を帯びるようになります。

どんなことを聞こうが、どんなことを教わろうが、それを理解するのは個人です。

個人を厳密に言おうとするなら「個性」

個性が何かを観た時、個性的な見方をします。

個性的と言ってもここでは一般的に言われる「個性的」とはちょっと意味が違います。

goo辞書から引用

[形動]人や物が、他と比較して異なる個性をもっているさま。独特であるさま。「個性的な人」「個性的なデザイン」


・・・・・・

ちょっと意味が違うというのは、人それぞれ理解が違っていて、大方はある一定の意味を規定しているという事です。

辞書の言葉どおりの事を言っているのですが、これを書いている私とこれを読んでいるあなたに理解に隔たりが生まれています。

一つのことを正確に伝えようとすることは、不可能に近いものがあります。

今日は伝わらない訳をお伝えしようとしていますが、それさえ伝えることが難しいのです。


ですから横道にそれているようでも、「個性的」という言葉一つを伝えるだけでも難しいというお話を書きます。

私が「個性的」という言葉をありのままに見た時、比較という概念は薄いもしくはありません。

比較を通して「個性的」と使うなら、個性的という意味は社会一般的な感覚が感じられると思います。

比較をしないで「個性的」という言葉を感じてみることができますか?

もし感じることができるのなら、それはとても興味深い体験になるように思います。

この答えは、ここに書くことではなく、あなたの中にすでにあるという事。

それを知るなら、何かが動き出します(さらに逸れていますが・・・・)


その答えは在るがままの中にある答え。


在るがままにみる人とお話をする場合、物事を正確に確実に伝えられるようになります。


在るがままにみることができない人同士なら会話は成り立っていると感じているだけです。

帳尻があっていればそれで会話が成り立っているように感じてしまうものですが、そうではありません。


「私を観るんです」

とお伝えすると

「そうか、自分を観ればいいんだ」

と解釈されることが殆どです。

個性を通して解釈をするので、「私を観ればいいんですね」

になってしまいます。

多くの場合それは違います。

違うのに「そういったからそうして何が悪いんだ?」

と考えるかもしれません。

でも、違うんです。

伝えたい意味と理解されることが一致しません。

それなのに文章を読んで理解できるというのでしょうか。

「それはこういう事ですね」

という人がいます。

それに対しての答えはいつも

「違います」

です。

それでも、理解したという人は理解したと思い込んでいます。

その思い込みに囚われて「違います」という言葉に腹を立てます。

そうしたらそこから抜けることができるのでしょうか?


一生懸命動画やブログを見ることではありません。

私は短絡的に「違います」とは言いません。

腹を立てさせて何の得があるのでしょうか?

自覚を実践されている方も「違います」というと腹を立てて話を聞かなくなってしまいます。


禅では「違う」ということをとおして、在るがままを教えようとしました。

違うと一喝され続けて初めて分かる境地があります。

叩かれても叩かれても、答えを出し続けた先に「それ」がありました。

(過去形なのは理由があります。)

さて、解った時点で「違う」という事なのです。だから伝わるという事をゼロから知らなければなりません。

これを読んでいて解った!

と思うならもう違うのです。

伝わらない訳がわずかでも伝わることを願います。

何かを読んで、見て、理解したと考えるならそれは既に囚われの中であって、自由は失われ窮屈になっていきます。

理解から自由になることをお伝えしたいのですが、他の悟りのお話をしているところと同じように聞こえてしまいます。

同じように聞こえるのは同じことを言っているのではなく、

「それってこういうことでしょ」

とあなたが考えているからです。

それは思い込んでいるという言い方もあります。

思い込みが強い人ほど感情が強く動きます。

怒らせる相手がいるのではなく、自分自身に原因があるという事ですが、それも感情が強く出る人には伝える事は出来ません。

できないというより、しないことが理にかなっているといった方が正確です。

もちろん伝える側に原因がないわけではありません。

しかし、本気で伝えようと努力した時、「伝わらない」を在るようにしているモノが良く見えてくるのです。

正確に伝えようとすればするほど、それが見えてきます。

ですから、多くの指導者は黙ります。

解ろうとするのではなく、判らないという事をなんとなくでも分からないと在るがままには見ることができないのです。

たった一人で到達できる人は100万人に一人以下のように感じます。

(この様に書くと1/100万の人が思い込みで沢山増えてしまうのです)
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2018/02/10 12:11 差取り TB(0) コメント(-)
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