そのまま「観る」という科学
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差取り塾

Author:差取り塾
社会の中で地に足をつけて活きるという事を突き詰めると、思考を超えた合理性を帯びるようになります。

特別な事は何も必要はありません。

なにかの知識を身につける必要はありません。

何かをする事が大切ではありません。

この世界における究極の修行は何もしない事です。


それだけ読むと勘違いをする方もいらっしゃるかもしれませんが、究極に近づけば近づくほどそれが分かるようにないrます。

人間にとって何もしないという事がいかに難しいかをここでお伝えすることは難しい事です。

だからこそ、人間に解る業、瞑想があるように思います。

その瞑想でさえ、瞑想の形があって、マントラを使うという事などを通して、何かをしています。

何もしないという事を極めた時、人を超えます。

人という形さえなくなる境地。

そのような境地に至った時、同時に認知できるすべての事を超えた理解に至る事になります。


悟りを得て、空を知る

そのような次元で書いているわけではありません。

人が知る空などどうでも良い事です。

また、人間が語る空など論外です。

今の人類で得られる最高の境地とはどの様なものでしょう。

それを知るために何かを勉強する必要があるでしょうか。

または、勉強によってそれを得られるでしょうか。


知れば知るほど、何もしないという事から離れていく傾向にあります。


人や人間はならなず概念をつくりだします。



概念という認知の固定化は何をもたらすでしょうか。

個性であり、多様化が始まります。

それは分離であり、力の分散です。

そこで初めて恐れや怒り・悲しみを味わう事になります。



なにをお伝えしたいかというと、この世の中を頭の良い人が考えれば考えるほど、仕組みに気をとられればとられるほど力の分散が顕著になるという事です。

究極の話なので、ある程度聞き流してもらう必要はあるかもしれませんが、この世で生きる、何かをするという事自体に何の価値もありません。

それを通して知る「何か」が大切です。


そして、先ほどのプロセスを逆にたどるなら、この世に生きる意味もおのずと分かるようになります。

この世でどんな生き方をしてもかまいませんが、何かに気をとられているという状態は極力避けるべきです。

私が今お伝えしてる瞑想は、人間の為の瞑想ではなく、人が人を超える為の瞑想です。

ですから、広く伝える瞑想ではありません。

ある程度自覚をした人でも理解が及ばないのですが、個人個人の段階によってさまざまな取り組みを「する」という事を通して究極に近づけるようにしています。


私がお伝えしている自覚は、誰でもやろうと思えばできる事であり、たとえ寝たきりであっても意識が無くてもできる事です。

できないという方やわからないという方は、やらないだけなのですが、そこから伝えていく必要もある事は事実です。


誰にでも平等にある「機会」。

それを活かすか活かさないかは、この世で成功するという概念とは全く次元が違います。


自分自身が個性として「在る」事自体が機会なのです。

チャンスを活かすという次元の話ではないのです。

そこには差別や優劣が入る余地はまったくありません。

これがなんとなくでも腑に落ちる方は、大きな潜在的広がりを感じるかもしれません。

これが私がやっている事の一つであり、この世界に類をみない事なのです。


追伸:ハードルをとことんあげているように感じる方もいるかもしれませんが、できるだけ誰にでもわかっていく事ができるようにしているのが実際に行っている事です。

誰でも究極まで連れていく・・・・そこに善処しつづける事を大切にしています。
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