そのまま「観る」という科学
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差取り塾

Author:差取り塾
社会の中で地に足をつけて活きるという事を突き詰めると、思考を超えた合理性を帯びるようになります。

多くの方が瞑想を実践していますが、そもそも瞑想とは何なのか。何を以って瞑想と言っているのかわかっている方はいないように思います。

シンプルであるその答えをここに書くことはしません。

時期を見て書くかもしれません。

その内容は瞑想の概念を大きく変える事になるかもしれませんが、浅い段階でそれを聞くと極浅い理解に終わります。


どんな事でもそうですが、その方の段階によって理解出来る深さと範囲が決まります。


瞑想もその時に適切な瞑想があります。

人間の瞑想があり、人の瞑想があります。

それは

目覚めの瞑想と悟りの瞑想

とも言えます。

しかし、多くの場合目覚めの瞑想でめざめてもその瞑想を続けるのではないでしょうか。

私はある程度の瞑想の経験はありますがそれほど一般的に広まっているような瞑想をしたことがありません。

それでも、見性する前は瞑想で遠く離れた家の時計が鳴る音が聞こえるような体験などの五感が常識を超えて働くような経験をしたことがあります。

それも今となってみればどうでも良い事です。


ある程度の境地に至った時、今、差取り塾で行っている瞑想をお勧めするようになりました。

始めは、一般的に広まっている様々な瞑想と違っていたので、「瞑想のようなもの」と表現していました。

最近ではその様な表現はしないのですが、それはなぜでしょうか。

こういった事は塾内ではお話しません。

ですから、これを読んで塾の方々が「そうだったのか」と確認することになります。


人間と人

目覚めと悟り

そういった区別を曖昧にしていると、様々な事で整合性が取れない事があります。

今行っている瞑想も、答えから言うと、人間の瞑想とは一線を画した瞑想であったため、人間の瞑想からすると「瞑想みたいなもの」という表現が正しかったと言えます。

しかし、人間と人を分けてみると瞑想の整合性がとれることになります。

整合性を在るようにしている「それ」が今回書かない答えです。


ブラックボックスであっても多くの方が瞑想をしています。

それらはほぼすべて人間の為の瞑想であり、人間が目覚めるまでの瞑想です。

巷で確認できる瞑想はすべてそれだと思っていただいて構いません。


人の瞑想が巷にあっても意味がありませんし、誰も見向きをしないからです。



だれも見向きもしないような瞑想を私はし続けています。

そして、それを伝えています。

最近は伝える事を任せるようにしていますが・・・・



最近思うのは、悟りはそれほど簡単ではないという事であり、私が進めば進むほど師匠がどれ程の尽力をしてくれたのかという事を思い知ります。

この世で多く語られている悟りは昨日書いたように目覚めです。

しっかり分けていないと人間は目覚めても自分を迷いに追い込んでいく事になります。



一人でも多く、正しい認識をもつことを願って書いています。

非難の気持ちで書いているわけではありません。



さて、話は少し逸れます。

私は普段自覚を伝えているわけですが、自覚で小さな悟りつまり、見性に至る事はできます。

しかし、大悟の境地に至るためには自覚だけではとても苦労を伴います。

10年自覚しても、大悟に至る方は1000人に一人いるかいないか位です。


私は自覚でそこに至る事になりますが、それは大変な事でした。

自分で歩んだからこそ、これは誰にでも向いている手法ではない事を知りました。

では、どのように大悟の境地に至る事が最も優しいか寝ても覚めても自覚し続けました。

その時、そこに在ったのが今行っている人の瞑想です。

その瞑想の甲斐もあって、そこに至る方が出るようになりました。


その方々はする瞑想と、それ以前の方がする瞑想のようなものは明らかに違うのですが、一本の道で繋がるようにお伝えしています。

差取り塾で行っている瞑想ができた経緯を書きましたが、面白かったでしょうか。

自覚は究極に至る唯一という囚われがあったらできなかった瞑想です。

ここで少しネタばらしを・・・・・・

と思いましたが、今、瞑想と自覚をされている方にとって良い影響がないのでそれは行ないという、事になりました。

ネタばらしというのは、何か仕掛けがあるわけではなく、理を紐解いたらこうなるというお話です。

それは秘密にしているわけではなく、隠れることなく、隠すことなく表れていて一定の境地を超えれば誰にでも分かるかる事なのです。

それを前もって教えたら毒になるという意味です。


そういった事を多くの方が知り、私がいなくなったとしても、消えていかない事を願っています。

瞑想の仕組みは、大悟をはるかに超えてみれは普通にわかる事ですし、その時にわかれば十分です。



これから人間が迎える困難と、人が迎える安寧

そのボーダーラインになるところはどこでしょうか。

それは考える方の観点によって違うのです。

ですから、それを探さないでください。

探す事よりも、目覚めて悟っていく事に邁進してください。

悟らなくてもいい、目覚めなくても目覚めているという言葉を信じてはいけません。

それは悪魔のささやきです。


目覚めて、悟って、真実を自分で確かめてください。

私はそこまで案内することが目的なので、私にとって嘘はご法度なのです。

至った時に嘘はばれます。


悟りを簡単に語る方の言葉を信じないでください。

悟りに至る時間や苦労は人それぞれですが、悟りを言葉で語りつくすことはできませんし、人間の観点では知る事ができないのです。

という事は、目覚めた観点からも悟りを理解できないという事でもあります。



目覚めた段階で、目覚める為の瞑想から卒業するべきですがそれを教えてくれる先生はいません。

それがとても不幸な事です。


人間の瞑想は現象の中であり、共鳴も現象です。

共鳴は考えであり、考えと考えが一致を見せる時共鳴が起こります。

それで目覚める事はあっても悟ることは難しいと考えてください。

共鳴はダイナミックな感覚を起こすかもしれませんが、それも現象のうちなのです。


尊敬される聖人たちが行っていた瞑想をけなすつもりはありませんが、それらが人間用の瞑想だとしたらどうでしょうか。

今の人間は過去の人間より大分進化しています。

瞑想が古ければ古いほど、過去の人間のためにつくられたことになります。

それが合理性に則った考え方なのではないでしょうか。


私がお伝えしている瞑想は、最新の瞑想ではありません。

今までなかったかもしれませんが、それはこの世に現れていなかった、過去の人類には早すぎた太初からあった瞑想です。

私が考えた瞑想ではなく、そこに在る瞑想を表しただけということです。


差取り塾の皆さんはこれを保存しておいてください。

さらっと教えていましたが大変な生みの苦しみの末にお伝えしているのです。



今まで悟り以降の話は必要性にかける話であり、あまり語られることはありませんでしたし、語ってはいけないという話でもありました。

今でも、目覚める方は多くいても悟りに至る方はまだ少ない状態です。


悟り以降のプロセスに向き合う中、精度は大きく進化してきました。

これからも、目覚め、悟り、深めていく事は昔とは比べ物にならないほど精度を増していくでしょう。

それが必然に起こるようにする、瞑想もあるのです。



2020/07/28 07:09 差取り TB(0) コメント(0)
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