特別なことをやめると自然になります。
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差取り塾

Author:差取り塾
悟りの目線から明人が色々伝えさせて頂きます。
自由について、愛について書いています。

自覚。

修行なんですか?

と聞かれた時、YESともNOとも言えません。

多くの人にとって修行とは苦しくては根気がいるものという観念が在るからです。

ですからその観念を抱いている人にYESと答えることは間違えています。

だからと言ってNOでもないのです。


自覚を始める人によって違いますが、苦行とする人もいますし、障害など全く無いかのように楽しむ人もいます。

それは初期のばらつきです。

自覚に真摯に取り組んだ人はいずれ自覚が楽しくなります。

そこまでくると、自覚をやめる確率は極端に少なくなります。

差取り塾においてその確率は大体7~8割位

自覚が理解できないうちはつまらないのは当然です。ですから辞めたくなる気持ちもよく分かります。

根気よく続ける人は必ず分かるようになります。

最終的に最後まで到達しようとする人の割合は6~7割位。

そこまでいくと楽しい事を超えて面白いが先に立つようになっているようです。

苦しい思いを続けて悟るという概念は常識ではありません。

修行を成就させた先人が更に苦行を続けるでしょうか?

お釈迦様はどうだったでしょうか?

楽しくもないワークをやり続ける必要はないのです。

自覚は

自覚法でもなく、メソッドでもなく、ワークでもありません。

生きることそのものなのですから。

自覚して生きている時

活きている。

それを肌で分かっている人達が自覚を続けているのです。





差取り塾も随分成熟してきました。

あなたが決めて進むなら、ロケットエンジンを手に入れるようなモノです。

成層圏を抜けるのは飛行機のエンジンでは無理なのですから。

2017/09/13 15:31 悟り TB(0) コメント(-)
人間はなんでそうなるのか分からないでやっていることが沢山あります。

その代表的なものが、なんで生きているのか?

これが分からないでも生きています。

それができるのが人間の意識であり、その意識が物事を見えなくしているといえます。


少し、ハードルを下げてみるなら、なんで悟るのか分からない人が悟りを語ったり指導していたりします。

面白いことだとは思いませんか?


なんでそうなるのかはっきりしているなら、その様に道を歩いてもらうだけで済むのです。

分からないまま「いつそうなるか待つしかない」と言っているのならそれはあまりにも滑稽なことなのです。

「これさえやっておけばいつか悟る・・・(かも)」

おかしくないですか?

(かも)って・・・・それを口でいうひとはいません。

言わないから(かも)って思っていることが分からないかもしれません(笑)

でも、その人は(かも)って思っているならそれが起こっていることは確かです。

(かも)だから確率論になっていくのですが・・・

いかがでしょうか?

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(かも)で生きて・・・行く?

できた(かも)と喜び、できなくなってしまった時になんでできなくなったかわからない。

(かも)しれないで生きる事をやめることはあなたの生き方を明確にしていく生き方です。

2017/09/09 15:00 悟り TB(0) コメント(-)
難しいこともたまには書くかもしれませんが、難しいことを分かることが大切なのではありませんから、分からなくてもよいのです。

差取り塾で伝えていることは、動画やTwitterなどを含めるとかなり惜しみなく公開しているつもりです。

しかし、できるようにならないのはちょっとした工夫が足りないから。

それが分かればスルスルと分かるようになっていきます。

分からないことにとらわれてはいけません。

ブログや動画で伝わるなら差取り塾がある必然性はなくなります。

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観点を変えればいいんです。

これをブログで一人ひとり分かるように伝えられるでしょうか。

どうしたら観点を変えられるのか?

どこに観点があるのかわかってどこに動かせばいいのかわからないなら何を理解しても一緒です。

共に歩んで共に分かり合う・・・そんな中で大切なことが伝わっていくように思います。



次の日曜日、グループセッションを行います。

通常毎月第一日曜日13時から東京のちょっと西、相模原市のすぐ隣でやっています。

新宿から電車で1時間ちょっとです。

気になった方はいらしてみてください。

美味しいご飯を食べたくてくる方もいらっしゃいます。
2017/08/30 13:00 悟り TB(0) コメント(-)
生きていると度々「わからない」という事か起こります。

そこで思うのですが、多くの人間は「分からない」を分かっていないという事です。

「わからない」を分かった気になる事で「わかった」といっている場合がどのくらいの率で起こっていると思いますか?

10% ?

20% ?

想像してみてください。

201708221725150c3.jpg


「わからない」と真摯に向き合わない限り「わかった」と「分からない」を区別できません。

「解る」のは個人的な現象です。

解った時、思考による規定が起こっています。

思考による規定を行うのは個です。

例えば

1+1=2

これは個人的な規定ではないように思うかもしれません。

しかし、1を規定し2を規定しているのはその規定を採用した個人です。

「1」を解るという規定について伝わるでしょうか?

「1」という規定がない限り数式は成り立ちません。

簡単に誰でも解ることは規定がなければ成り立たない「わかる」なのです。

「1」をどの様にしてわかりましたか?

リンゴが1つある。

そんな風に「1」をわかりましたか?

「1」をどの様にわかったのか知ることがすべて分かることにつながります。

「1」を知らなければ「2」はわかりません。

教わらない限りわからなかったなら、それは規定にすぎません。

その可能性が高くありませんか?

答えはご自身で導き出せると思います。

規定に基づいてわかったことは、規定がなければ分かることが出来ないものです。

規定の上にしか成り立たない「わかった」はわかったとはとても言い難い事なのです。

すると最初の割合についての答えは

100%

になるわけです。

これは哲学ではありませんから解釈して「わかった」とはいってはいけません。その瞬間、わからない自分自身を在るようにしているからです。

こういったことを自然に理解している状態に差取り塾では導いています。


だからと言って敷居をあげないでください。誰にでも簡単に分かる話しか普段はしません。

しかし、その観点から今日のような記事を考えてみるとこういった事も出来ますし、こう言った内容が好きな人も差取り塾に合っていますよという一つのお話です。

「1」を知らない人はほとんどいないのですから。
2017/08/22 17:27 悟り TB(0) コメント(-)
自覚を伝えているのは、悟ってほしいとか、覚醒してほしいとかそんなことではありません。

人間として生きていて、目の前に広がる景色以外の景色があるんです。

その景色は目には見えません。

しかし、在る

無いものを在るといっているのではないのは少し勉強した人なら分かると思います。


私が何かを語るとき、そこの景色を見ながら語ります。

そこには記憶などの思考を使うわけではありません。

確かに広がる景色。

それを見ながら、それをただ見て、答えればよいのです。

そうしているうちに同じ景色を見る仲間が増えてきました。

その仲間とは、同じ景色の中で話をするわけですから、話が合わないわけがありません。

頂上


本でしか見たことない景色を語る人と、実際の景色の中で語る人は一見区別がつきません。

実際の景色を見たことがない人からすれば分かる方がおかしいのです。

しかし、写真集で見た景色をあたかも見てきたようにお話する人は後を絶ちません。

そして、その景色を見たことない人を巻き込んでいきます。



私は、景色を教えることがどれ程バカバカしい事かをどうやって伝えたらよいのでしょうか?

景色を知らない人たちが写真集の景色を語る人を見破れるはずもありません。


だからこそ思うのです。一緒に景色を見せたいと。

景色を見た人はすべてを理解します。

写真集を勉強してその気になっている人の話も、明らかに分かるのということは、説明するまでもありません。

同じ景色を見ている人は語ることなく理解します。

だからこそ、その景色を見せたい。


それを登山に例えるのなら、いつも一緒の景色を見ていないといけません。

なぜなら、登山において自分だけ上に登って、その景色を伝えても何の足しにもならないのです。それを聞いたからといって、いる場所が変わるわけではないのです。

それどころか、上から見ていてもその人がどういった景色で、どういった足場で、どういった苦労をしているかは分かりません。

同じところを一緒に歩く。

どんな風に歩いているかわからなければ頂上に到達させることはできません。

すべての人がその山に登るのは初めてです。

ガイドは、一緒に歩き、時には背中を押し、時には元気づけ・・・・・・ガイドの役目をひたすら続けるのです。


ある人は小山に登ってそれらしく語っています。

それを聞いてその話に飛びついていくのなら、一生本当の頂上には到達できません。


だからこそガイドは大切ですし、ガイドがいないという事は大変なことなのです。

自分の足で歩いて登った人は、違っていてもいずれ気づきます。そしていいガイドを見つけます。

景色を本だけで知ろうとする人は頂上には立つことはありません。

いつまでも本の知識を語り続けます。

そして、頂上に上った人を評価します。

この人は頂上に上った人なのか、どうか?

登ったことのない人同士で議論をします。

それは自分の足で登ったことがない人がすることです。


なぜこんなことを書いていると思いますか?

登ってほしいんです。自分の足で。そして、景色を見てほしい。そしたら、語ることなく分かるんですよ。

頂上に着くまでの時間はそんなにかかりません。半年、1年一生懸命やればほとんどの人が頂上に到達します。

※それはある山についてです。頂上まで登ったらそこから目指す山がまたありますし、そこから登り始めている人も沢山います。

その山の頂上に到達した人たちはこの世の迷いから解放されます。

その景色はすべてを語ります。

景色を知るだけでそれを知るのです。


概念は何もいりません。

何も勉強する必要はないのです。ただ、到達するだけ・・・・・


イエスキリストは言いました。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

この意味がもうわかりますね。

到達したものは、すべて知るのです。

しかし、普通に考えるような「知る」ではありません。

何かを新しく知るのではなく、ただ、頂上の景色を見ているだけなのです。

だからその景色についてすべて語ることならいとも簡単にできます。

イエスキリストの言葉を一生懸命理解し解釈しようとしているなら、山に登らないで、それについて書かれている本を読んで想像を巡らせている状態と一緒です。

イエスキリストが見ていた景色と同じものを見るだけでいいんです。

そしたら何を語っていたのか?そんなことは目の前に広がっているんですよ。

難しいなんてことはあり得ないし、解釈というプロセスも必要ありません。

イエスキリストはある山のある景色をみて、それを語っただけなのですから・・・・


イエスキリストでもお釈迦様でも、えらいお坊さんでもだれでもいいんです。

そこら辺の子供が景色見て語る事も同じです。そこに行ってみたら分かるんです。


それなのになぜ、景色の勉強をしなければいけないんですか????

明らかにおかしい事です。

なぜ、それを勉強させようとするのですか?

知らないからです。

これをやらなければたどり着けないといって、ワークを押し付けるなら、知らないものがやる事です。



初めての登山。登山道を進めば進むほど初めての経験があります。

その度にそこに引っかかっていてはあっという間に人生が終わるのです。

しかし、一緒に登り切った時何が起こってるでしょうか?

絶景と、そこに共に登った寸分の狂いなく語り合える仲間がいるのです。

2017/08/18 12:00 悟り TB(0) コメント(-)
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