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プロフィール
Author:差取り塾 |
最近の投稿は、ノートに行っています。
こちらに書くことはこれからは無くなる予定ですので、noteの方にお越しください。 https://note.com/satorijyuku FC2さんには、長くお世話になりました。 こちらのブログは、過去記事の閲覧ができるように、残しておく予定です。
塾内で、普段どのようにおつたえしてるか?
自覚のやり方・レクチャーのような話は、動画やブログですべてと言っていいほど公開しています。 そこで、個々の方々に、どのように伝わっているかというところは、はかり知ることができません。 実際にお話をする方々に、わたしが何を見ているかという事をお知らせするなら、 その方の内側で起こっている事、内側における外で起こっている事を読み取りながら話の内容を調整をしてきます。 +αがありますが、それについては割愛します。 「私」に向かう方は、自分自身の可能性を開きだします。 今まで閉じていた可能性が開いてくる・・・すると、その可能性の窓からそれを感じることができます。 可能性を閉じた方からはそれを感じることはできませんし、感じたとしても、それをお伝えする事、また、伝わる事はありません。 一方向では伝えられないそれがとても大切ですし、そこを整えずして、理にかなった理解に至る事は難しいのです。 だから、塾に入らなければいけないという事ではありません。 自分自身でやってみる。 とても大切な事です。 やってみた方しかわからない事があります。 そのうえでどうするか? また自分で選択する事ができます。 文章であっても、その境地まで広がる余地をつくりながら書いています。 それを感じて、わたしに伝えてくださる方は少なくありません。 少しでも、自覚の奥行が伝わるよう、それを意図して、書いています。 できるだけ情報は公開しています。 チャレンジされる方は、実践されてみてください。 大きな変化を起こす可能性は、大です。 動画もやっています。 チャンネル登録・高評価いただけると、自覚が広がりやすくなります。 よろしくお願いいたします。 https://youtu.be/wskEhc_nnq8?si=WCDlwI-GV2dOWHTD
youtubeなどで、よく見かけるコラボ
差取り塾のチャンネルではそれをしていません。 そうしている理由をこのあまり読まれないところで書いてみたいと思います。 自覚は知識の話ではありません。 考え・思考から自由であるところのお話です。 ですから、知識で語っている方々と、マッチングが悪いわけです。 考えからどこまでも自由でいる時、悟りの境地に立っているかもしれません。 立っているかもしれないという表現は、この文章がそのまま伝わる事が少ないからです。 思考と意識の関係。 そこを解き明かしていく事・・・ これは自覚ではないのです。 すべての思考から自由になった時に、見える必然があります。 それが理でもあります。 それは、個人的なモノであり、普遍的(不変的・不偏的)なモノでもあります。 そこに立って話しているスピーカーは正直見たことがありません。 悟りのマスターであったとしても、仏教などの宗教的観点から話しています。 どんなに優れた経典であっても、そこにわずかでも囚われるなら、自由ではありません。 人間は、自分の経験や規定という経典の信者でもあります。 個々にある信仰の上で話をしても、異教徒同士で話が通じないように、信者と無神論者で話は通じません。 わたしは無神論者ではありません。 無神論者は、神がいないと信じているからです。 神はいてもいなくても良い。 そのうえで神を語るという事はどういう事でしょうか。 神という概念に向き合って、「わたし」がそこにどのような意味付けをして固めているかを自覚する必要があります。 理論を持った瞬間から、自由は失われます。 その理論も、自分がそう考えているという事を知る必要があります。 どんなに、正しいと考えても、 正しいと考えているのは、誰なのか知っている必要があります。 知識を語るという事は、記憶を語るという事でもあります。 その時、あるがままを見ていません。 自覚人は、あるがままを語ります。 全く違うのです。 自覚は、自覚を実践し、自覚人として生きていない限り理解できません。 自覚を実践しないまま解ったようにおっしゃる方がいらっしゃいますが、それにわたしが突っ込みを入れる事はありません。 わたしが、突っ込みもしくは訂正を入れる方は、塾生のみです。 自分自身が気持ち悪い行動をすることは、自覚人として、自覚を錆びつかせることです。 すべての思考から自由な境地で、物事を学んでみる。 これは自覚人になった時にわかる違いです。 全く違うのですが、その違いを説明するだけ、毒になってしまいます。 コラボできない理由を書いてみましたが、伝わったでしょうか? 伝わったと考えているでしょうか? これがわかると、人生が大きく開けていきます。 自覚をやらない理由は見当たりません。 意識が進化していくプロセスそのものなのですから。
人間の常識は、人間の目線から見た時の常識です。
視座が変わり、その視点から見た時、常識は変わります。 以前の常識が非常識になる。 そういった事も沢山起こるようになります。 自分の目で見るなら、それは違うとわかるのに、誰かから聞いたそれを信じる事で補おうとします。 面白い現象です。 だから、人間なのです。 信じるといった、全く実のない思考によって、無いものがあるようになっています。 それが、人間の常識をたくさんつくり出しています。 そこから自由にならない限り、人間は人になる事がありません。 そこに、違和感を感じ、疑問を持ち、 ひっくり返す気概がある方、自覚しましょう。 ひとりがそうなる事で、この宇宙は随分変わるのです。
持論を持っている方は、一度それをぶち壊してみる必要があります。
持論で語る方は数多います。 しかし、その持論はいつも壊れる可能性を秘めています。 人間が大きく成長する時、自分の持っている概念が木っ端みじんになればなるほど、大きな成長を遂げます。 成功者の話にそのような話が多い事に気付くでしょうか。 持論とは 自分の概念に基づいて、展開されている考え 形の上に、形を載せている不安定な積み木のようなものです。 それが崩れた時にまっさらになりながら、ゆるぎないなにかだけが残っています。 これを創造的破壊と言います。 そこからまた組み上げる。 その時ゆるぎないものに近づきますが、小手先でそれをやるならまた崩れ去ります。 それは神の計らいのようなものです。 大切な事に気付かない行いは、理によって崩されていくのです。 持論を展開している時に、何が起こっているか? 持論を話している時、自分で構築した考えという記憶にフォーカスが起こっています。 記憶にフォーカスする事が、強く起きれば起こるほど、今起こっている事に意識が向きません。 その状態は年単位、十年単位もしくは、一生続くこともあります。 多くの人間はそのような生き方をしています。 昔も、今(?)も、持論を持つことが良い事のように言われる場面もありますが、それは一概に良い事とも言えないのです。 人間は、創造か破壊、一方をする傾向にあります。 創造的破壊をできる人間はめったにいません。 それができる人間が、リーダーシップをとるなら、この社会はすべての魂にとって、善い社会になっていく事でしょう。 すべての人間にとって良いわけではありません。 すべての魂にとって良い社会なのです。 さて、創造的破壊ができるようになるためにはどうしたらよいのか? わたしは、その辺もお伝えしながら、実践的に出来るまで付き添っています。 もちろん、創造の部分において、個性に依るところが、大きいので、大きな個人差は生まれます。 そうであっても、創造とセットの破壊はに恐怖は皆無です。 ですから、わたしは、創造的破壊をお勧めいたします。 いらしてください。 あなたの概念をぶっ壊して、本質のあなたを露わにします。 想像してみてください、あなたの本質を ここに別れ道があります。 動画もつくっています。何気ない話の中に奥行きを感じてくださる方がいたらありがたいです。 https://www.youtube.com/@satorijuku |
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