特別なことをやめると自然になります。
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差取り塾

Author:差取り塾
悟りの目線から明人が色々伝えさせて頂きます。
自由について、愛について書いています。

生きていると度々「わからない」という事か起こります。

そこで思うのですが、多くの人間は「分からない」を分かっていないという事です。

「わからない」を分かった気になる事で「わかった」といっている場合がどのくらいの率で起こっていると思いますか?

10% ?

20% ?

想像してみてください。

201708221725150c3.jpg


「わからない」と真摯に向き合わない限り「わかった」と「分からない」を区別できません。

「解る」のは個人的な現象です。

解った時、思考による規定が起こっています。

思考による規定を行うのは個です。

例えば

1+1=2

これは個人的な規定ではないように思うかもしれません。

しかし、1を規定し2を規定しているのはその規定を採用した個人です。

「1」を解るという規定について伝わるでしょうか?

「1」という規定がない限り数式は成り立ちません。

簡単に誰でも解ることは規定がなければ成り立たない「わかる」なのです。

「1」をどの様にしてわかりましたか?

リンゴが1つある。

そんな風に「1」をわかりましたか?

「1」をどの様にわかったのか知ることがすべて分かることにつながります。

「1」を知らなければ「2」はわかりません。

教わらない限りわからなかったなら、それは規定にすぎません。

その可能性が高くありませんか?

答えはご自身で導き出せると思います。

規定に基づいてわかったことは、規定がなければ分かることが出来ないものです。

規定の上にしか成り立たない「わかった」はわかったとはとても言い難い事なのです。

すると最初の割合についての答えは

100%

になるわけです。

これは哲学ではありませんから解釈して「わかった」とはいってはいけません。その瞬間、わからない自分自身を在るようにしているからです。

こういったことを自然に理解している状態に差取り塾では導いています。


だからと言って敷居をあげないでください。誰にでも簡単に分かる話しか普段はしません。

しかし、その観点から今日のような記事を考えてみるとこういった事も出来ますし、こう言った内容が好きな人も差取り塾に合っていますよという一つのお話です。

「1」を知らない人はほとんどいないのですから。
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2017/08/22 17:27 悟り TB(0) コメント(-)
自覚を伝えているのは、悟ってほしいとか、覚醒してほしいとかそんなことではありません。

人間として生きていて、目の前に広がる景色以外の景色があるんです。

その景色は目には見えません。

しかし、在る

無いものを在るといっているのではないのは少し勉強した人なら分かると思います。


私が何かを語るとき、そこの景色を見ながら語ります。

そこには記憶などの思考を使うわけではありません。

確かに広がる景色。

それを見ながら、それをただ見て、答えればよいのです。

そうしているうちに同じ景色を見る仲間が増えてきました。

その仲間とは、同じ景色の中で話をするわけですから、話が合わないわけがありません。

頂上


本でしか見たことない景色を語る人と、実際の景色の中で語る人は一見区別がつきません。

実際の景色を見たことがない人からすれば分かる方がおかしいのです。

しかし、写真集で見た景色をあたかも見てきたようにお話する人は後を絶ちません。

そして、その景色を見たことない人を巻き込んでいきます。



私は、景色を教えることがどれ程バカバカしい事かをどうやって伝えたらよいのでしょうか?

景色を知らない人たちが写真集の景色を語る人を見破れるはずもありません。


だからこそ思うのです。一緒に景色を見せたいと。

景色を見た人はすべてを理解します。

写真集を勉強してその気になっている人の話も、明らかに分かるのということは、説明するまでもありません。

同じ景色を見ている人は語ることなく理解します。

だからこそ、その景色を見せたい。


それを登山に例えるのなら、いつも一緒の景色を見ていないといけません。

なぜなら、登山において自分だけ上に登って、その景色を伝えても何の足しにもならないのです。それを聞いたからといって、いる場所が変わるわけではないのです。

それどころか、上から見ていてもその人がどういった景色で、どういった足場で、どういった苦労をしているかは分かりません。

同じところを一緒に歩く。

どんな風に歩いているかわからなければ頂上に到達させることはできません。

すべての人がその山に登るのは初めてです。

ガイドは、一緒に歩き、時には背中を押し、時には元気づけ・・・・・・ガイドの役目をひたすら続けるのです。


ある人は小山に登ってそれらしく語っています。

それを聞いてその話に飛びついていくのなら、一生本当の頂上には到達できません。


だからこそガイドは大切ですし、ガイドがいないという事は大変なことなのです。

自分の足で歩いて登った人は、違っていてもいずれ気づきます。そしていいガイドを見つけます。

景色を本だけで知ろうとする人は頂上には立つことはありません。

いつまでも本の知識を語り続けます。

そして、頂上に上った人を評価します。

この人は頂上に上った人なのか、どうか?

登ったことのない人同士で議論をします。

それは自分の足で登ったことがない人がすることです。


なぜこんなことを書いていると思いますか?

登ってほしいんです。自分の足で。そして、景色を見てほしい。そしたら、語ることなく分かるんですよ。

頂上に着くまでの時間はそんなにかかりません。半年、1年一生懸命やればほとんどの人が頂上に到達します。

※それはある山についてです。頂上まで登ったらそこから目指す山がまたありますし、そこから登り始めている人も沢山います。

その山の頂上に到達した人たちはこの世の迷いから解放されます。

その景色はすべてを語ります。

景色を知るだけでそれを知るのです。


概念は何もいりません。

何も勉強する必要はないのです。ただ、到達するだけ・・・・・


イエスキリストは言いました。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

この意味がもうわかりますね。

到達したものは、すべて知るのです。

しかし、普通に考えるような「知る」ではありません。

何かを新しく知るのではなく、ただ、頂上の景色を見ているだけなのです。

だからその景色についてすべて語ることならいとも簡単にできます。

イエスキリストの言葉を一生懸命理解し解釈しようとしているなら、山に登らないで、それについて書かれている本を読んで想像を巡らせている状態と一緒です。

イエスキリストが見ていた景色と同じものを見るだけでいいんです。

そしたら何を語っていたのか?そんなことは目の前に広がっているんですよ。

難しいなんてことはあり得ないし、解釈というプロセスも必要ありません。

イエスキリストはある山のある景色をみて、それを語っただけなのですから・・・・


イエスキリストでもお釈迦様でも、えらいお坊さんでもだれでもいいんです。

そこら辺の子供が景色見て語る事も同じです。そこに行ってみたら分かるんです。


それなのになぜ、景色の勉強をしなければいけないんですか????

明らかにおかしい事です。

なぜ、それを勉強させようとするのですか?

知らないからです。

これをやらなければたどり着けないといって、ワークを押し付けるなら、知らないものがやる事です。



初めての登山。登山道を進めば進むほど初めての経験があります。

その度にそこに引っかかっていてはあっという間に人生が終わるのです。

しかし、一緒に登り切った時何が起こってるでしょうか?

絶景と、そこに共に登った寸分の狂いなく語り合える仲間がいるのです。

2017/08/18 12:00 悟り TB(0) コメント(-)
今日は差取り塾でどんな事をやっているのか書いてみたいと思います。

わかりやすく言うと己を知ることなのですが、それでくくれるところではありません。

己を知ることと言うと、「あ~そういうことね」と考えますが、そういうことではありません。

「そういうこと」と言っているとき、それは自分自身の理解の中でしか考えることが出来ていない表れで、「そういうこと」と言いながら同時にメモリー(知識)を辿っているのです。

「そういうこと」とすぐに考えてしまう人は自分の知識以外の事を吸収出来ないのです。

それを柔らかくして溶かしていくことは大切なことです。

理解とは、今の知識以外の知識を受け入れ、自分のモノとすること。


受け入れ体制が出来ていると自然に理解が起こり始める


これが最も大切なことの一つです。

人は理解が起こると、受け入れ体制を一端閉じてしまう傾向があります。

閉じることで、閉じこめてしまうモノがあります。

それは他でもない自分自身

そして苦しむ

その仕組みは頭でわかってもなんの支えにもなりません。

それを本当の意味で理解する事は日常生活では起こらない事です。

それをどうやって伝えているのか・・・

差取り塾の人はは無理なく出来ることを、無理なく出来る人がやります。

何も求めませんし、無理しているならやめるようにも言います。

「自覚」を続けるうちに出来る人が自然な形でやるようになります。

人のために何かやることはなく、自分の為にやったことが人のためになっている状態が自然に起こり出します。

そういった循環が勝手に出来て、澱みが無くなっていきます。

その循環にふれる人の意識も澱みが無くなります。

澱みがある時、誰かが掻き回します。するとその澱みに自分で気付きます。

澱みをかき回してあげるのは結構な労力を必要とするのですが、自分で出来るようになるまでみなさん惜しみなくお手伝いしてくれます。

ですから澱んでいるところがどんどん無くなっていきます。

何故、みなさんがお手伝いするかといえば、合理的に考えるとそれが明らかに得だと知っているからです。

差取り塾は個人が「自覚」を伝えているコミュニティーではないのです。最初は一人で掻き回していましたが、今では多くの人がそれをしています。

掻き回し方もバラエティーに富んでいます。

掻き回すといっても、一朝一夕に出来ることではありません。

自分自身を知り、相手を深く知ろうとする決した心を持ち合わせていない人はただ傷つけるだけだからです。

おちゃらけた事を言って安心させる事とは違います。

それはどんな事かというと・・・・

安心感を共有する(特別感の共有・志の共有・善行しているという思い込みの共有・・・)

依存心を刺激する(もたれ合いの仲間意識・養護・・・)

共感を与える(一緒に泣く・縁・・・)

恐怖心を利用する(恐怖心を置き換えて巧妙に無くなったようにする・・・)

etc....

差取り塾で自分だけ良ければいいという考え方は自然になくなっています。

それは教えを守るという話ではなく、それが理にかなっていると知るようになるからです。

ですから、本気で皆さんお付き合いしています。

物事に向き合わないことは自分を追い込むことと深く理解しているなら、一人ひとりが向き合う事も当然になり誰かが停滞していたらそれに真剣に向き合います。

大切なのは一緒に向き合うという事

当の本人が向き合いたくないのに他者が向き合おうとさせることは苦しみを生みます。

本人に向き合う準備ができるまで、その準備を手伝う。

そして、向き合う準備ができたとき、核心に一緒に向き合ってみる。

すると、本人だけではなく一緒に向き合った人にも自覚が起きていくのです。

ですから、他人事ではないのです。

そこで、ごまかすようなことはしっかり自覚している人には起きません。

ごまかし、向き合う姿勢が少しでもずれたなら受け止められないことを知っているからです。

テーブルの上にボールを落とすようなものです。テーブルが少しでも傾いたらボールは落ちてしまうのです。

真剣勝負の中で、真正面から取り組むことを体で分かる(この場合意識ですが・・・)これができるようになると、どんなことにおいても知恵が湧くようになってくるのです。

テキストなどはありませんが、そういった仕組みを自然に分かっていくのが差取り塾です。

差取り塾の皆さんがテキストであり、仏教でいうなら仏法です。道元禅師が中国から持ち帰った仏法と同じものです。

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テキストは逆にじゃまなのです。

人間は理解できないのです。違う言い方をするなら、人間の意識では理解できない。さらに言うと、思考での理解を超えているとうことです。

意識を扱えるようになるには、テキストで勉強してはいけませんし、本を勉強してはいけません。

一緒に体を張って「自覚」していったとき、マインドで理解できない何かを知ることになるからです。

ですから、数回のセッションで悟りや「自覚」を伝えることなど不可能なのです。

稀に一瞬ですべてが分かる人もいますが、それは極稀な事でしかありません。

差取り塾である程度進んだ人は、伝える事も学び始めます。

そこにもテキストはありません。

一歩一歩何を伝えるべきなのか知っていきます。

それがシンプルになればなるほど、核心を示唆するようになっていきます。

伝えるものは示唆し、学ぶものはそれを悟る

思考を超えたそれらはその様に伝える事が最も合理的です。

答えを言った瞬間にマインドの渦中に落ち、マインドの外の理解が起きにくい状態になるのです。

これを明確に分かってやっているところは世界中探しても、差取り塾しかないと思います。

精密に作用させる事を何年も磨いてきた結果です。

2017/08/16 13:15 明人からのお知らせ TB(0) コメント(-)
悟りとは○○だ

と規定する事は、間違っていると師匠は言っていました。

私自身も自覚をしていてわかることは、確かにそうだな~ということ。

「こうやったら悟れます」とか、「こうやったら簡単だ」みたいなことは安易にいわない方が良心的。

本当に仕組みがわかれば簡単なのですが、仕組みを分からないうちから簡単だと言えるならそれはどうかと思います。

今までやってきて、やればやるほどシンプルになって伝えることが本当に簡単なモノになってしまいましたが、簡単すぎて分からない人もいるかもしれません。

何故なら人は簡単なことに答えはないと考える傾向にあるからです。

悟りは特別なことではないのですが、特別感が好きな人は特別に捉えようとする。だから簡単ではいけないし、みんなが悟ったら良くは思えないのは特別感が脅かされるからです。

特別感が好きな限りその人にとって悟りは特別であり、とても難しいものになります。

何故私が普段簡単な言葉を使うように心がけているかというと、特別感が邪魔になるからというのも理由の一つです。


「自覚」とはそうしている「私」を知ることが大切・・・に思われがちですが、それは初心者の「自覚」(野球でいうとファールチップ(かすっているけど前に飛ばないという意味)

「私」を愛することが自覚をする人が大切にしがちですがそれは子供の自覚です。

一所懸命「私」を愛そうとしているのを実際みるとただの自慰行為を行っているだけの人が殆どです。それで気持ちよくなって、喜んでいるのですからそれを違うというのも酷なこと。嫌われただけでした。

大手を振るって自慰行為を出来るのだから、好きな人ははまり続けるでしょう。

知っていたらとてもできません。

そもそも満たされた「私」は愛を必要とするのでしょうか?考えれば誰にでも分かることです。

しかし、愛が足りないと考える人には愛と呼ばれるようなものが必要なのは確かです。

「私」を愛することに励んでいただきたいと思います。



「私」を知ること

大切なことですが、これが難しい、、

文章では伝えられないばかりが、書くと誤解をつくり出すきっかけにしかなりません。

安易に考える人は知るために掘り下げて考えてしまいます。

心理学的手法では「私」を知ることは不可能です。

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師匠におんぶにだっこでいた人が心理学的手法で悟ったと勘違いする事はよくあることです。

そういった人の10年後もみましたが、苦しみに満ちていてとても自覚を実践している人には見えなかったことを覚えています。

私の師匠ですが、悟りにおいて本当のマスターだと今でも思います。

しかし、師匠が伝えていることを理解している弟子は殆どいないように思いました。

悟りってそんなに難しいのか?

自覚ってそんなに分からないモノなのか?

正直私はそれがわかりません。

なんで自覚が分からないのか分からないのです。

師匠はそのまま伝えているのに弟子が勝手な考えを付けて、都合のいいように解釈するのをみていると何ともいえない気持ちになります。

何故弟子が分からないのか?

それを分かるための努力もしました。

それはここでは書けませんが、今では自覚を伝えるときに大いに役立っています。

自覚は多くの人にとって難しいようです。

難しいという事すら気付けない人も沢山います。

自分の都合で解釈する人は難しいし、難しくしていることにも気付かず、師匠の力を借りているので難しいとも感じない。

無自覚の中で自覚している事ですが、それを知っている人は稀です。

自分でやろうとしない限り分かることはありません。

お金が目的である弟子は自分を窓口にして自覚っぽい事を教えつつ、師匠のところに送り込みます。そして、自分の功績のように宣伝しまた呼び込みをおこないます。

それも悪くはないように思うのです。

結果的に呼び込まれた人は悟りを得ることになるのですから。

しかし、お金を取って呼び込んでいる本人の末路は恐らく・・・

しかも囲い込もうとするなら益々です。

囲い込まれた人も別のモノを背負います(背負わされているようにも見えますがおろすことができるのも本人次第ですから)。



ここまで書いてきましたが、私としてみれば書かなくてもよいことを書いていますし、書く理由も分かろうとしないとわかりません。



明らかに適当な「自覚」がこの世を独り歩きすることは、師匠の顔に泥を塗るのと同じ。

だから黙ってはいられない・・・・ということでもありません。

師匠はそれを知っていて警告をした上で許しているのですから。

「自覚」は今のところ適当なままでいると思います。

仏教もその様に今まできたように、お釈迦様の教えをしっかり伝えられたのは開祖と極一部の限られた弟子でした。

その限られた弟子は「自覚」に限っては日本にいないのかもしれません。

「自覚」を文章で伝えることが出来ると考えるのは自覚を知らない者の考えです。

師匠はそこをうまく悟れるように話してくださっていました。

師匠でさえ「自覚」とはこういうやり方だとはハッキリ言わないのです。


間違った「自覚」を広めても現世的に罪は無いどころか儲かります。

しかし、違う観点から見たときはどうでしょうか?

総て見ていた「私」は何をしようとするでしょうか。

神は罰を与えることはあり得ません。

「私」を知ることとはそういったことでもあります。

これを読んでいるそこの「あなた」突き刺さるものがりましたか?それがあなたの未来を示唆しています。

私が言っているわけではありません。


今回はこれくらいでいいしょうか?

「  」(^_^)ノ

2017/08/11 12:00 明人の独り言 TB(0) コメント(-)
自覚という言葉に聞きなれないと感じる方も多くいらっしゃると思いますが、自覚ってどうなの?というお話に少しお付き合いください。

お付き合いしていただいているうちに、思考の外からほどけているはずです。

自覚をすると悟る?

これはyes

ですが、自覚をしているつもりなら答えはnoになります。

自覚っぽいことして、自覚を誤解する人は沢山いますし、それで発信までしてしまう人もいますが、それはそれでいつか気が付く時が来れば自覚になるように思います。

自覚をして、生活が変わった

という人がいたなら、自覚をすると生活が変わるの?という質問が起こるかもしれません。

その答えは厳密にいえばno

結果にフォーカスするならyes

です。

自覚とはこういうものだという答えを表したなら、その答えすべては×です。

自覚で私を知れば悟ることができる?

答えはno

私を知ると悟る?

no

なぜnoなのかといえば、ここに書いてあることが真実なのではなく、ここに書いてあることを通して、あなたがあなたの中に真実を在るようにするからです。

あなたがどのような真実を創り出したかは、ここではわかりません。

「私」をみるんですよ

とお伝えしたとき、伝えたいことをそのままできる人は今まで一人しか会ったことがありません。

それでも勝手に分かったと思う人は後を絶ちません。

「その自転車を見てください」といった時、自転車を見ることができますか?

自転車

簡単ですね。

でも、おそらく自転車は見ていないと思います。

自転車が近くにあればあるほど、自転車は見なくなります。

知っていましたか?

知らずにそれをやっているのです。

間近にあったら多くの人が自転車を見ることができないのです。

そんなことはないと考えるのなら、この話はそれで終わります。

そして、自転車をみることなくその場を立ち去っていくのです。


そんな分かり切ったことを分かり切ったと思い込んでしまうのが人の思考です。

早く答えが欲しいと考え、急ぐあまり見逃していることが沢山あります。

いったんそこで立ち止まり、今、自分自身の心がどう動いているか、つぶさに見てみることが大切です。

さて、自転車の話でここまで引っ張りましたが・・・

答えを書くとなーんだで終わるかもしれませんし、あぁ・・・と気づく人がいるかもしれません。

これはあくまで例であって、そのようなことがそこかしこで起こっているという事です。

「ちゃんとみてるよ!」

「見ていないわけない!」

そんな風に自転車を目の前に言う人も珍しくないと思います。

これが世の中の仕組みです。

思い込みから抜けられないという仕組み。それがその世の中の仕組みだという事が分かったら、あなたは変わらざるを得ないと思うのですがいかがでしょうか?

すべては現れているのにそれを見ていない。

そんなはずはないとは思いませんか?

以前「私は盲目だ」と感じながらもどうしていいのかわかりませんでした。その立場からものを考えてもどうしても思い込みを材料に考えてしまう。それが今ではわかりますが、当時は気持ち悪さしか感じることができませんでした。

それでずいぶん苦しみましたし、それを解決する手段は無く、本を読んでも全く答えを得られませんでした。

それでも探し続け、本を読んでいくうちに何となくわかったようなところもありましたがすっきりすることはありません。

分かった気になって痛い目を見たことも、痛い行動もたくさんしていたように思います。

分かっていることと分かっていないことの区別はわからないときはできません。

そして、分かった時「分かっていなかったな」と分かるのですが、当たり前すぎて忘れ去られています。

しかし、知らなくても何となく気づいている人は物事に真摯です。

「知らない」という事を知っていると真摯にならざるを得ないのです。

これを読んで知りましたか?

目の前の自転車を見ることができたでしょうか?

自転車を見るのはこの後の追記で・・・
2017/08/09 14:43 明人の独り言 TB(0) コメント(-)
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