特別なことをやめると自然になります。
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差取り塾

Author:差取り塾
悟りの目線から明人が色々伝えさせて頂きます。
自由について、愛について書いています。

グループセッションを続けてきた中で、今日は最もたくさんの人が来てくれます。

昨日、宿泊の方と夜遅くまでお話をしていましたが、その中で触れたことを一つ。

差取り塾で自覚をしていると、色々な理由がなくなっていきます。

恐れる理由

やりたくてもやらない理由

やったほうがいいと考えるのにやらない理由

誰かに、何かに影響される理由

これらが無くなった時、行動がスムースに起こるようになります。

葛藤から自由な状態です。

理由がなくなれば葛藤もなくなっています。

多くの人の生き方は、理由を探してから何か行動を起こそうとします。

それは同時に葛藤も起こすことになります。


その葛藤が物事の進みを遅らせたり、うまくいかないようにしたりさせているのですが、明らかに目の前で起こっていようとも、それをどうにかできることを知らないのなら、そのまま付き合っていくしか選択肢はありません。

そういったことに苦痛を感じていてもどうにもできないのなら、人間はそれを感じないようにする機能が働きます。

そして、無自覚にストレスを感じ続ける事に甘んじます。

それは経験における知恵です。

そして、ストレスは何かしらの形で表面に現れる時が来ます。

理由とは、個性が作り出した思い込みです。

その思い込みがストレスを作り、自分自身を縛ります。

理由を行動の材料にしているうちに理由に縛られ、理由でストレスを受けるようになります。


理由から自由になった人は、行動の自由度が増します。

選択肢も広くなり、その中から最も良い選択ができるようになります。

そこまで来ると、どうなるっかは誰にでも想像できるのではないでしょうか。


人間は想像できることに対してしか、興味が起こりません。

想像を超えたことにつては恐れや疑いが生まれます。

そうやって自分自身を守ることができるという幻想の中で生きています。


しかし、想像は想像であり、それに影響を大きく受けている限り、意識の成長は起こっていきません。

差取り塾は人間の想像を超えた成長をするところです。

ですから、想像でものを考え、決めている人にとっては縁がないように感じると思いますし、実際そうです。

ほかの何かと同じだと想像することはおそらく間違えています。

誰にでもわかるやり方、その人にわかるやり方を通して、想像を超えた世界まであんなできるところは世界中探してもそうはないと思います。

そして、一緒に歩んでいった時、その方は想像だにしなかった境地に立っていることに気づいて、私に教えてくれます。

一人ひとり、続けてきた人が必ず想像もできなかった境地に立って、自由に活きる事を遊んでいます。

しかし、多くの方にとって想像もできないことなのでなかなかうまくお伝えすることができないのが残念ですし、続けてその境地に立った方でも、どんなにそれが良いのか友人にさえなかなか伝えられません。

今度東京で、お話会があります。

想像できないところは足を運んでみてじかに感じていただく事が一番のように思います。

山梨まで来ていただくには交通費も時間もかかりますが今回は都内でのお話会です。

ホームページからお申し込みください。

昨日の夜は、私が差取り塾を続けてきたなかで一つの節目を感じることができた時間でした。

皆さんが輝き、歩み続けることで、後からくる方の先を明るく照らしています。

歩むと決め歩み続けるのなら、だれにでもその境地に立つ資格が生まれるのです。



6月16日土曜13:00-15:00、
東京駅八重洲口にある会議室で、
差取り塾のお話会を開催する予定です。

一般7,000円です。
2018/06/03 09:50 悟り TB(0) コメント(-)
心の声を聞ける人はどれほどいるのでしょうか。

そもそも心が勝手にしゃべっているのでしょうか。

そういった人もいるかもしれませんが、そういった機会がだれにでも起こるかといえばそうではないように思います。

しゃべらない心の声を聴こうという努力はあまり合理的ではありません。

心が日本語をしゃべっていると勘違いしている人は多いように思います。

その声を期待しているなら、迷走中なのかもしれません。


心の声が頻繁に聞こえるなら、それは良いことなのでしょうか。

私にはよいか悪いかは判断できません。

声の主によって変わるからです。


意識のことについて普段からお伝えしていますが、その意識を「聞きに行く」ことはあまりしません。

映像を耳で聞こうとし、音を目で見ようとしているようなものです。

いつまでたってもわからないのはその為です。


「私」を知ろうとしたとき、人によってアプローチが違う中、それをできるようになるまで早い人で一月以内、ゆっくりな人で一年以上かかります。

「私を見る」という表現をすると、視覚的な感性を使いますし、「心の声を聞く」というと聴覚的な感性を働かせます。

そういった人間的な発想を少し変えると、内側の世界がわかるようになります。

ヒントになったでしょうか。


言葉をうのみにするということはそういったことでもあります。

多くの勘違いがそこにひそんでいるのです。

その間違いに気づかないまま数十年過ぎてしまうことは珍しいことではありません。

ちょっとした工夫がそれを変えます。

しかし、一人ひとり違う為に、100人が100人理解できる言葉はなく、オーダーメイドの言葉が必要になるのです。

2018/06/02 05:30 悟り TB(0) コメント(-)
最近の時事ネタを見ているととぼけて何とかしようとする人たちが目立つように思います。

外から見てどう見てもおかしいのに本人は一生懸命取り繕い嘘もつく。

今までの日本はそれで通っていたかもしれません。

しかし、最近は少し違うようです。


しかし、国のトップが逃げ通せたなら遠回りを余儀なくさせられるように思います。


我々の世代で、50代以降はうそをついて逃れようとする人は少しずつ減っていきます。

戦後まもなく育った時の風潮は今の世代に大きな影響を与えいまだにそれが抜けていないように思います。

世代を非難しているのではなく、私の周りを見ての個人的な印象です。

教育が大きく作用していることは想像に難しくありません。


子供のころの教育は年をとっても影響力を保つということなのでしょうか。


さて、自覚をするということはその例に当てはまらないように思います。

考えに影響されることが少なくなるからです。


食べることにも不自由していた時代の人に多く見られる傾向は、だましてでも取れ(盗れ)です。

いまだにそれを実践している人を多く見るのは私がいる業界のせいでしょうか。

私はあまりテレビを見ません。

それでもこの国のトップの醜態は耳に入ってきます。

それでは他国に馬鹿にされるのも当然です。

多くの人を巻き込んで嘘をつきとおそうとしますが、周りの人も良くそれに付き合うことができるな、と感心するばかりです。

都合でうそをつく人に尽くして何になるのでしょう。

そのような人が都合が悪くなれば切るのは火を見るより明らかです。

しかし、それにも気づけないのが学校の成績が良かった人たちなのです。

日本の危機管理はその人たちに任されていますが、自分の危機もわからない人たちにそれができるはずもありません。

今、日本の危機は一人の個人です(笑)


周りでしりぬぐいしている人たちが嫌になるまで気づくことはできません。

それが人間の仕組みです。


嫌になって気付く

これを繰り返しているなら、いつまでたっても苦しいことは続きます。

これはとても大切なことです。

パートナーとの関係もそうですし、仕事、人間関係もそのようなプロセスを踏むことがほとんどです。

ですから、危機管理が甘くなるのです。

そうなる前にわかるのが大人の意識です。


とぼける相手にどうして付き合わなければならないのでしょうか。

とぼけることに何故わざわざ突っ込まなければならないのでしょう。

とぼけていることをなぜはっきりさせる必要があるのでしょうか。


もうノーなのではないでしょうか。

一人ひとりが成長しないとこの国はだめになっていきます。


おかしなことをしたら全員そっぽを向く国なら、おかしなことは起こりません。

そのような世の中は来るのでしょうか。

少なくともわかる人から変わっていかなければならないと思います。


今はピエロ買って出てくれている人たちのおかげでそれに気づく人も増えていると思います。

しかし、気付くだけでは進歩はありません。

行動することは、それらを糾弾することではありません。

一人ひとりが意識を進化させていくことが最も合理的な方法だと私は考えています。

世の中で起こっていることは、そういった兆候を理解し動き出す人のためにあるといっても間違えではありません。

2018/06/01 22:53 悟り TB(0) コメント(-)
私を何と思う。

神の御子です。


そうです。私は神の御子です。

この言葉は、あなたという「私」に向けられています。

民衆の王にならなかったのは、神の御子に王は必要ないと知っている者が言った言葉です。

一人ひとりが神の御子であるという事を伝えるためにそのものはこの世に生まれました。

2018/06/01 12:59 悟り TB(0) コメント(-)
多くの人は近しい一人が亡くなると悲しみます。

人が亡くなることが本当に悲しい事なら、小さな子供でも同様に悲しむはずです。

しかし、そうではありません。

死ぬという事が悲しいという事。

このことに向き合わないまま人の死を悼む、悲しむなら、本当に死を知っているという事なのでしょうか。

死を知らないまま、悲しみに暮れている事は、亡くなった方に本当の意味で向き合う事ができているのだろうか。

そんな疑問を持つ人はどのくらいいるのでしょう。


近しい人が亡くなったらこのようにすべきだという話ではありません。

死に向き合ってみてこそ、一人ひとりに答えが見えてくるのではないでしょうか。


死という事が起こった時、一つ思う事はその人が生きてきた証であり、私個人的な思いでは「お疲れさまでした」と言いたいです。

ご冥福をお祈りします

という言葉。

ご冥福とは何でしょう。

どんな心持ちでそれを発するのでしょうか。

死を知らないまま死後の幸福を願う・・・・

それでも「ご冥福をお祈りします」といえるでしょうか。

私が死んだら、ご冥福を祈ってほしくはありません。

余計なお世話です。

今まで生きた軌跡も知らない人がこれからの事を祈ってくださるなんて鳥肌が立ちます。


ご冥福をお祈り申し上げます


と言われて、違和感がある方にこのブログを送りたいと思います。

そうはいっても社交辞令もあります。

しかし、社交辞令であっても一度向き合ってみてはいかがでしょうか。

死生観を垣間見る機会になるのではないでしょうか。



6月16日土曜13:00-15:00、
東京駅八重洲口にある会議室で、
差取り塾のお話会を開催する予定です。

一般7,000円です。
2018/05/31 23:22 悟り TB(0) コメント(-)
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