特別なことをやめると自然になります。
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プロフィール

差取り塾

Author:差取り塾
悟りの目線から明人が色々伝えさせて頂きます。
自由について、愛について書いています。

社会において正しいことが広まるわけでも間違ったことが広まるわけでもありません。

社会の中で広がるためにはいかに個性を取り込むか、衝動を刺激するかにかかっているように思います。

多くの場合人気があるという事はそれらがうまくいった結果に当てはまります。


一生懸命やろうが適当にやろうが、エゴを満足させてあげると人間は満足します。

エゴに逆らうなら、人間関係はあまりうまくいきません。

このブログはエゴを満足させるようなものではありません。

したがって、エゴは面白いとは思いません。

なるべくエゴが反応しないように書いているつもりですが、エゴの衝動が発動する人も少なくはないと思います。

この世を分かればわかるほど、この世は地獄です。

地獄になれた住人の発想はまた地獄を創りだします。


死んだら天国に行くか地獄に行くかという事が気になる人もいるかと思いますが、それは取り越し苦労にしかなりません。

すでに、地獄を体験しているのです。

地獄でいくら叫んでも多くの人が理解することはないでしょう。

しかし、ここが地獄だという事が朗報なのかもしれません。

これ以上悪くならないのですから。

生まれ変わったとしても、衝動で動かされ、何かに追われることは変わりないのです。

地獄で追ってくるのは鬼ではありません。

窯でゆでられるわけでもありません。

むしろその方がわかりやすく、抜け出そうとする気持ちになれるだけ恵まれた環境かもしれません。

多くの人間は地獄にいながらそれに気づかないようにうまくエゴを働かせています。


この世にイエスキリストやお釈迦様が生まれてきたとしたら、多くの人は非難に回るか、気づかずに見過ごすでしょう。

地獄の住人は地獄にいるべくしているからです。

地獄にいることが悪いことではなく、いるべくしているということが大切です。


正しいことをやろうとする人はそういった地獄に住んでいますし、人を騙そうとする人も既に地獄の住人です。

この世での表現する相手は地獄の住人だという事を忘れてはいけません。

あなたがいくら良く振舞おうとも、地獄の住人は良く思わない事も多々あります。

地獄で人気のドラマは救われるドラマです。

地獄の住人だからこそ救われることをどこかで望んでいます。

そうでなければ救われる必要などないのですから。

あなたの救世主はあなたです。

神が愛に満ちた人を救うなどという事は期待しないでください。

神はあなたがあなたの救世主だという事を示唆しています。

神などいなくてもいいんです。

救うのは自分ですから。


この地獄から自分自身を救い上げてください。

この世全体が天国になったら、元々の役割を満たさなくなるのですから困る人が大勢あらわれます。

叡智はあなたの中にいつでもあります。

それを引き出すだけでいいのです。


2018/01/11 01:06 悟り TB(0) コメント(-)
そのまま感じることに修行が必要でしょうか?

ありのままに見る事。

素直に見る事

そのまま・・・

たったこれだけのことですべてを知ることになります。

ただそれだけなのに特別な修行が必要なのでしょうか。


特別な修行は必要ありません。

ただ、そのまま見ればいいのですから・・・

多くの人にとってその練習は必要かもしれません。

ただそういった練習をし続けることですべてを理解します。


何かに追われるように修行するのはやめて、ただ見るという事を練習すれば自然に分かるようになります。

やろうとすれば誰にでもできる事です。

ただ、やり方が分からなかったり、違っていたりするだけです。

何年も何十年も思い悩まないでください。

難しいことではないのです。
2018/01/04 14:16 悟り TB(0) コメント(-)
選択によって物事が起こっていく様に感じますが、それは感覚です。

選択に意識を注いだとしても思うような結果に繋がるかどうかは不確定であり、求める結果になる可能性を上げるためにまた意識を注ぎます。

選択は知識や経験によって行われていますから、知識や経験の相違によって選択が変わっていきます。

一般的に選択はその様に起こっています。


ひらめきを伴うような選択もあります。

その時なにが起こっているのかはそれほど難しいことではありません。

窮地に立たされた時や瞬間的に起こる(普段を超越した)選択は100%肯定的な結果に繋がります。


そういった選択をし続けることが出来たらどんなにいいか?

と考えたくなりませんか?

その考えがパラドックスをつくり出します。


ですから人間は間違いを繰り返すことになります。

間違えを繰り返すという認識も概念も正しくはありません。


話は逸れますがブログでは一言を伝えるために数百、数千の言葉が必要です。

多くの人が読むとき色々なフィルターを通して読まれるからです。

それをひとりに限定できたらどれだけ言葉がシンプルに伝えられるでしょうか。


そこにもすでに選択が起こるのではないでしょうか。

書物や動画など、万人向けにつくられたモノを選び続けると言うことはどう言うことか、理解が起こるなら選択は変わります。


なにを選択するかということはそれ程重要ではなく、どの様な私が選択するか、選択を在るようにしているのかに注意を払うことが出来るようになると、自然に選択は変わっていきます。

貰った道具を使うより、オーダーメイドした道具を使ったときなにが変わるでしょうか?

左利きの人が右利き用のハサミを使うこと。左利きだからこそ知る経験です。

右利きの人は左利き用のハサミを使ってみるか、左手で今のハサミを使ってみてください。

自分に合っていない状態はどんな現象を起こしていくのか深く知るなら一つ悟ります。


さて、大幅に戻って・・・

ひらめきを伴うような選択と同等な選択はいつでも出来るようになります。

出来ないようにしているのはいつまでも出来合いのモノですましているからです。

その行為が悪いのではなく、その心持ちが選択を鈍らせ停滞させているのです。

誰かがつくった枠にあなたはきっちりはまることはあり得ません。

それを理解するだけでも選択は変わっていきます。


2018/01/03 10:45 悟り TB(0) コメント(-)
自覚をする事によって
その人の内面が変化していく。
入塾して2年半、
ご多分に漏れず、わたしもそうです^^

では、
自覚をしている人間が家族の中に一人いたら
その周りはどうなっていくのでしょう?
誤解される事を恐れずに
実際に起こった事をそのまま書いてみようと思います。


わたしの娘は現在小学校3年生。
わたしが自覚を始めた当時、娘は小学校1年生でした。
以前から娘が他の子とは違う、
母親であるわたしの持っている感覚と娘のそれとのズレを懸念していたのですが、
小学校に入学して、授業の内容がむずかしくなるにつれて
明らかに娘が困っている様子が出てきました。
専門家に相談し、娘にテストを受けてもらい、
娘が短期的に物事を記憶する事(ワーキングメモリー)が極端に苦手だという事が分かりました。
一般的に発達障害と表現されます。

具体的な例を挙げると
「3・9・13」という3つの数字を覚えて反復する事が苦手です。
「3、、、、9、、、、、」と記憶をたどって頭の中で覚えた数字の形を言葉にしているうちに
記憶がどんどん薄れて、最後の「13」は記憶から抜け落ちる。
記憶を短期間の間、脳に留まらせる事が苦手なのです。
何かに夢中になると他の事は忘れてしまいます。

小学校の担任の先生から
「何かを思い立つと授業中に突然、教室から出ていく」
「算数ドリルが出来ない。途中から鼻歌を歌いだし、その後は授業を全く聞けない」
「お友達の名前が覚えられない」
など指摘を受けました。

この頃のわたしは子供の事で不安がいっぱいでした。

そんな中で、
差取り塾で自覚を学び、ただ自分の中を見ていく。
月に数回スカイプ勉強会に出て
「この数日はこんな感じでした」とシェアし具体的なアドバイスを頂き、
また自覚をする。その繰り返しをしてきました。
「わたしを観る」事に必死な2年半だったと思います。


初めは自分の中の表面的な考えに気が付くことが多かったです。
娘の勉強を見る時に起こるイライラする衝動など(^_^;)
でも途中からイライラする事に違和感が出て来て
あれ?なんだ?と(笑)

そのうち、自分の奥にある本音のような考えが見えてきました。
自分が心配や不安な気持ちに心が揺れるのが嫌だから娘の現状から目を背けたい気持ちや
「お前の躾が悪い、子育てぐらいちゃんとやれと責められるんじゃないか」という家族からの視点に対する怯え。
「この子はこれから先もずっとこうだ。わたしの人生はお先真っ暗だ。」という見えない未来に対する思い込み。
沢山の考えがイライラの前に在ったのです。
想像して掘り下げていくのではなく
ありのままに自分を見ていったらそこにあるのに気が付いたといった感じです。

そして子供がわたしを困らせているのではなく
わたしがその状況に対して考えを作りだして、問題だと決めつけてるという事が
体感を伴って理解できました。

以前のわたしは、
子供と接する時に無意識にいつも
「こうなって欲しい」という期待を持っていました。
相手をコントロールしようとする意図のような物です。
娘の話をよく聞いているつもりでも
娘の表情や、話をする言葉や内容に表れていることを
自分の都合の良いようにずいぶんと湾曲して受け取っていました。
「娘をそのまま見る」ことが全く出来ていなかったのです。



数か月前に面白い事が起こりました。

2年生後半から量が増えて画数の多くなってきた漢字の暗記に追いつけず、
テストで10点台を連発する娘に
朝晩に一緒に漢字の復習をしたり、
漢字の成り立ちを解説してる漫画を読ませたりしていたのですが
それでも、朝に書けていた漢字が昼間のテストではほぼ書けず、
という事を繰り返していました。

そんなある日、二人でベットに寝ころび、
自分の考えを脇に置いてわたしを観ながら
娘の話をよ~くまるごとそのまま聞いて会話をしていると
「漢字は覚えなくていいんでしょ。きれいに書いたら先生が花丸くれるし」(!?)
と言い出し、
「漢字は覚えるのが大切。きれいに書くのはお習字よ~。覚える8割。きれいに書く2割。」と伝えたら
「え~~~!!」と目を見開いて、しばらく壁を見つめて無言で固まっていました(笑)
私も拍子抜けしましたが、
娘も今までの事に合点がいってスッキリした様子でした。
その日から突然、
漢字テストが10点→93点→100点とジャンプアップしました。


「覚える事を理解する」
そこで起こった事を文章にするのはとても難しいのですが
娘はその日以降、
ダメダメだった他の学科でも高い点数が取れるようになり
テストの途中で遊び始める事も少なくなり
クラスメイトの名前を覚えると自ら言い出し
朝の用意が自分一人で出来るようになり
落とし物はなくなり、妹とのケンカも減り
そして本人はというと、今までと変わらずにのびのびと楽そうに過ごしています。

その変化を近くで見ていると
「器が広がった」という言葉が浮かびます。
日常生活で不得意な事はまだありますが
「勉強する、覚える」ということが今は娘の範疇にあるという感じです。

娘の可能性を「信じていた」訳ではありません。
自分の中にある娘への期待を否定し押さえつけた訳でもありません。
娘に対する考え、日常の中で起こる考えに気が付き、
その考えを在るようにしているわたしを観る。
ただ、そうやって日々を過ごしてきました。

入塾当初、子育てのアドバイスを求めるわたしに、
明人さんが「お子さんの邪魔をしない事、それだけですよ^^」
とおっしゃってくださいました。
こうして振り返ってみると、結果的には、そのようになっていたのだと思います。



文章が長くなってしまいました。
拙い文章ですが、読んでくださった方が、
何かを汲み取ってくださると嬉しく思います。

2017/12/30 12:00 塾生ブログ記事 TB(0) コメント(-)
充実した生活

充実した時間

充実感

これらが悪いという人はほぼいないと思います。

それどことか、それを目標にしている人も多数いると思います。

充実していることはいいことだという考えから少し離れるなら、少し見えてきます。

あなたにとって、充実感とは何でしょうか。

仕事を忙しくこなしている時、充実感を感じる人もいます。

大きなプロジェクトを成功させた時

・・・・なにかに一生懸命取り組んでいる時、多くの人は充実感を感じます。

それはネガティブと思えることでも起こっているのです。

何かに追われ、一生懸命こなしている時

借金を一生懸命かえしている時

家族のことで忙しく働いている時

誰かを助けるためあくせくしている時

その時も充実感はあるのではないでしょうか?

もしくは充実感に似た何か。

なぜ、人間は充実感を求めるのでしょう。

それは本来は満たされているからです。

満たされているのに、不足をつくり、不足を埋めようとする衝動が充実感を求めるのです。

充実感を感じられる場面は沢山あります。

追い込まれた時もネガティブな充実感が働いています。

良い充実感を求めているようで、充実感を求めるという事はそういった充実感も同時に求めているのです。

充実感を求めてさまよう事。

それは美談のように語られることも少なくありません。

世の中全体が充実感に対してポジティブな印象しかないからです。

充実感という成分だけ見た時、それは良いものでも悪いものでもなく、先ほど書いたように不足の代替えであり、本来の姿の虚像であると言えます。

他者を非難することで充実感を得ることもできます。

独善性も充実感を伴っています。

人間の不足感は色々な形で充実感を求めます。

充実感は生きているという感覚に近いかもしれません。

それは確かにそうなのです。

人間として生きているという事は、不足を抱える事でもあります。

その不足を埋めたら、完璧になるという幻想がそのような生きている・輝いているという幻想をさらに抱かせます。

幻想だらけでどこからどこまで幻想か分からないところでわれわれ人間は生きています。

何かを追い求めることは充実感を伴った幻想です。

何かと戦う事。勝利を得ようとする事。

充実感を頼りに生きる事は幻想を頼りに生きる事です。

こういった事を書いたら敬遠されるかもしれません。

しかし、充実感という幻想を超えた時、満ちた生き方が始まるのです。

満たそうとしない。

既に満ちているのですから。

満たそうとして満たされた刹那の感覚に浸っていても、それはやがて消えます。それは誰でも経験している事ではないでしょうか。

消えない満ちたそれは、誰にでもあるものです。

しかし、それを忘れたから充実感を求めるようになったのです。

既に満ちている人は充実感を求めません。

それをただ思い出せばいいのです。

2017/12/27 12:00 悟り TB(0) コメント(-)
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